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山東省:善良な農村女性が猛打され、夫も13年の懲役を受けた(二)

(明慧日本)

  法輪功への信条を堅持、2年の労働教養を下された

  2000年10月5日、済さんは再び蒙陰県国保大隊の警官に強制連行された。留置場に送られて1カ月拘禁された後、県610弁公室洗脳班に移送された。

  県610洗脳班で、当時の政法委書記・李枝叶、610弁公室主任・類延成らは何度も済さんに「真・善・忍」への信条を放棄するよう強要したが、済さんに固く拒否された。李、類は610弁公室のメンバーを指揮し、済さんを猛打して骨折させたため50日牢屋を出られず、排泄も中でするしかなかった。

 それでも洗脳班は、済さんを毎日10時間、片足で立たせたうえで、直立不動の姿勢をとらせた。

  県洗脳班は正月で休みのため、済さんは県留置場に移送されて1カ月拘禁された後、ドウ荘鎮洗脳班に移された。済さんは断食して、迫害に抗議した。ドウ荘鎮は恐れてまた済さんを県洗脳班に移送し、2001年3月まで拘禁した。その後、2年の労働教養を科し、山東省第一労働教養所へ送った。幸せに暮らしていた家族4人は、あちこちに別れ、つらい日々を過ごした。

  夫は仕方なく放浪、未成年の息子も拘禁、猛打された

  2001年春、ドウ荘鎮政府の役人らは再び夫のウ増建さんを連行しようとした。仕方なく、ウ増建さんは放浪し始めた。同年6月、試験中の息子は教室から県国保大隊のメンバーらに強制連行され、県610洗脳班に20日以上拘禁された。その期間、息子は警官の王偉らに猛打され、髪の毛をつかまれ壁に頭をぶつけられた。さらに鞭で打たれ、皮靴を穿いた足で足首の骨を踏み潰された。

  夫は13年の懲役の判決を下された

 放浪中のウ増建さんは当局に不法に指名手配された。2002年9月、チン南県でウ増建さんはほかの数人の同修と共に強制連行された。拘禁中、ウ増建さんは拷問により全身傷だらけになった。9月の中国北方は寒いのに、ウ増建さんは服を脱がされ、短いパンツだけで留置場に入れられた。留置場で、当局は受刑者に指示して、ウ増建さんに暴力を加えさせた。

 2003年3月28日、ウ増建さんと石さんは蒙陰県留置場から、公淑華さんと藤さんは臨チン県留置場より、また公茂海さんも平イ県留置場から蒙陰県裁判所に連れていかれ、公開裁判が開廷された。ウ増建さんは髭が長く、髪の毛も長くて乱れ、身にまとった衣服は1950年代の、非常に古い黄色の囚人服だった。靴もその年代のもので、靴下はなかった。法廷で、修煉者は「法輪功への弾圧は間違っている。法輪大法は正法であり、すばらしい。法輪功修煉者が行ったすべての事は国家にも民衆にも有益で、法律にも違反していない」と弁護した。しかし、裁判長は「お前らが弁護できるのは、お前らの具体的な犯行で、今日はほかの事を審理しない」と、事実を避けて先に罪を決めようとした。

 正午12時に裁判は終了し、ウ増建さんは13年の懲役刑を言い渡された。また、石さん・11年、公淑華さん・13年、藤さん・14年、公茂海さん・14年と、それぞれ懲役刑を言い渡された。これは歴史上稀に見る違法な判決だ。

 難関を乗り越え、壊れた家を再建

 2002年、済さんは刑期を終え、釈放された。しかし、彼女は帰宅し、我が家を見て、悲しみがこみ上げた。庭内は雑草が生い茂って荒涼としていた。夫はまだ迫害されており、子供は親戚の援助で学校に通っていた。しかし、目の前の苦難が彼女を押しつぶす事はなかった。この強い女性はすぐに悲しみから抜け出し、家を再建した。農村の仕事が忙しい時、彼女は農業をしっかりやり、暇なとき、アルバイトをしてお金を稼いだ。暫くして、少し貯えができて、生活を維持することもできるようになり、子供の学費も稼げるようになった。更に、親戚の援助で子供2人は大学に入った。長男は現在大学を卒業し、就職して、結婚もしている。

 生活の重圧があっても、夫がそばにいなくても、済さんは大法への信条があるため、苦難を乗り越えて壊れた家を再建できた。済さんは肌もつやつやし、顔色も良く、穏やかで簡素な生活を送っている。大法は彼女に楽観的な態度と健康な身体を与えたのである。

 2009年8月17日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/8/12/206373.html

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