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自分の習慣の中にある執着を見つけた

(明慧日本)明慧ネット上の同修の文章を読んで突然以下のように悟りました。

  普段、私は真面目な人間で、どんな事に対しても誰が正しいか否かをはっきり分析します。自分に対しても同じです。自分の間違いがあれば認め、そうでなければ、これは他人の間違いであるとはっきり言いました。いつも自分の分析はとても公平で正しく、かつ「真」であると思っていました。修煉して数年経ってもこの観念が間違っていたことに気が付きませんでした。

 実際、多くの事には常人には見えない因果関係があります。自分の分析には「善」と「忍」がないだけでなく、無意識的な「真面目」のせいで(個人の利益のため)、人を傷つけていました。自分は出来事の表面だけを見て、その裏にある相手の事情、また自分にはまだ体験できていないものが分かりません。自分は井の中の蛙のように、自分の分析が最もしっかり且つ正しいと思うなら、どのように自分を低い位置に置き、心性を向上させ、心の容量を拡大させることができるのでしょうか?

  「常人の社会において、人々は奪い合ったり、騙し合ったり、個人のわずかな利益のために人を傷つけたりしますが、こういった心は全部捨てなければなりません」(『転法輪』)。普段この一文を読む時、私は前の部分だけを考え、自分は絶対に他人と奪い合わず、そして騙さないと思っていました。今日の学法の時、「個人のわずかな利益のために人を傷つけたりしますが」を読んで、初めて悟りました。「こういった心は全部捨てなければなりません」ということは、修煉者として修煉の初めにしなければならないことです。自分の「真面目」は実際は頑固な執着で、名利を求め、人から自分の公正公平を認めてもらい、自我を守り、道理にかなわなければ人を許さず、気勢激しく人に迫ります。明慧ネットの同修の文章「常人の心を放下して着実に修め続ける」(http://jp.minghui.org/2009/08/10/mh114987.html)で指摘されたように、世俗に染まらないという潔癖さがあった人は、「この潔癖さがあったため、内に向けて自分を修めるより、人の欠点に目を向け、人のミスを寛容することができなかった…」とあります。

  『転法輪』のこの言葉は簡単なように見えますが、今日はこの言葉によって自分に深く隠された執着、常人の中の「習慣」を見つけました。心を静めて大法を学ぶ時に、大法は確かに毎回拝読してもそれぞれの体得があります。以前に拝読した大法の言葉は、時期や、修煉の段階において異なる内包を悟ることができます。私は、師父がいつも私たちに学法、学法、また学法をするようにと言われるその深い意味が、分かるようになりました。

  2009年8月20日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/8/13/206319.html

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