日本明慧
■印刷版   

中秋の日の呼びかけ:お母さんを返して!(一)

—ある法輪功修煉者の娘が書いた手紙

(明慧日本)2009年9月19日午前、黒龍江省のジャムス市公安局、前進公安支局、及び南崗出張所の警官らが令状の提示もなく十数名の法輪功修煉者を強制連行した。

 その中には闖静さんもいた。闖さんはジャムス市鉄道支局副所長クラスの幹部である馬学俊さんの妻である。闖さん夫婦は“真・善・忍”に従ってより良い人になるように自分を修め、馬さんは職場で最も“真面目な(汚職など無い)幹部として知られている。馬さんはかつて、職場から所長クラスの従業員に充てた高級社員住宅を困っている職員に譲りながらも、自分は雨漏りする部屋に長年在住してきた。1999年法輪功が無事実で迫害されてから、馬さんは数回も強制連行され、不法に監禁されたり、労働教養収容処分を言い渡されたりして、その末仕事を失い収入源が無くなった。更に懲役12年の実刑判決を言い渡され、様々な迫害を受けてきた。2002年12月、馬さんは迫害で体が不自由になり、危篤状態に陥ったのち、保釈された。だがその後、警官らはさらに妻の闖さんを強制連行して、さらに馬さんの自宅周辺を監視し続けていた。現在、闖さんも迫害を受けて危篤状態に陥り、家族は毎日闖さんの安否をとても心配している。

 かかる状況の元で、闖さんの娘の馬暁亮さんも迫害を受ける危険性があるため転校せざるえなくなったが、行き先もなく路頭に迷う日々が続いた。下記は娘の馬さんが発表した手紙の内容である。この手紙は、馬さん一家がこの十年間の迫害で、どれだけ悲惨な迫害を受けてきたのかを物語っている。

 **********************

 私は馬暁亮と申します。今年24歳になります。ジャムス市鉄道支局副所長幹部の馬学俊の娘です。闖静は私の母です。今手紙を書きながらも、これまでに受けてきた迫害の数々が脳裏に浮かびあがって涙が止まりません。

 私が小さい頃から、父と母はずっとまわりの人たちから尊敬される存在でした。それもあって私も周りの人から可愛がられ、少年時代は何の悩みも無く過ごしてきました。その時は遊び好きで、それでよく父から怒られました。父が怒るたび、母はいつも「お父さんを怒らせないようにしてね、お父さんの身体は良くないの、再生不良性貧血と乙型肝炎の病気が持病なの。お父さんが毎日薬を飲んでいるのを見たでしょ?お父さんが亡くなったら私も生きていけないよ、そうしたらあなたが父を持たない孤児になってしまうのよ」と言いました。それ以来、一家にとってお父さんがどれほどの重荷を背負っているのかを知りました。

 不幸にも、母の身体も少しずつ悪くなりました。母がどんな病気を患っているか分からなかったのですが、ふとんに血が付着することがしばしばありました。また、あるとき母が10日間ベッドから起きあがれなくなったこともありました。学校から家に着いたら、なぜか父と母が一緒に泣いていました。母は私が帰ってきたのを見ていきなり私を抱きつき、「“亮亮(私のあだ名)よ、お前にはもっと幸せになってほしかったが、しかしこんなことに・・・」と母はつぶやいた。当時、私には母の話の意味が良く分かりませんでしたが、悲しむ母を見て私も涙が止まらなくなりました。「この先、もしお父さんと私が亡くなったらお前はどうすればいいんだろう?」と母がいうのを聞いて、戸惑いに感じた私は「お父さんとお母さんはどこに行くの?」と聞きました。それを聞いた母はさらに悲しくなりました。「お母さんの病気は重い病気なの。お父さんが手術うけるようにというけど、重い貧血病があるから手術を勧めないと医師は言っているので、どうしようもないの」と哀しく話しながら、母は私を抱いて大声で泣きました。それ以来、私は一気に大人になったように感じました。「亮亮よ、この先、もしお父さんと私が亡くなったらお前はどうすればいいんだろう?」という母の話が良く思い出します。そのため自分の将来について非常に不安を感じるようになりました。

  1994年の秋のある日、母は父に「ねぇあなた、ここ数日薬を飲んでないみたいだけど、大丈夫?」と聞くと、「最近ね、法輪功の修煉を始めてから身体がずいぶん良くなってるよ。薬飲むのを忘れてた」と父はうれしそうに言った。この会話をきいて私は法輪功はすごいなぁと感じました。ちょうどその頃からだろうか、うちの家族に久しぶりに笑顔と生き生きとした雰囲気が戻ってきました。父の病気が確実に良くなったのを見て、母も修煉を始めました。修煉を始めて大法から恩恵を受けてきた両親は良く私に『真・善・忍』でもの事を判断するようにと教えてくれました。その頃は、私の人生の中で最も楽しい時期でした。

 しかし、1999年7.20以降、私たちの家にかつての幸せと喜びがなくなりました。ある日、父は夜になっても家に戻ってきません。家に残された私と母は大変不安でなりませんでした。結局私は母と二人はこうして一睡もせず父の帰りを待っていました。翌日、警官が突然家宅捜査していたとき、初めて父が強制連行されたことを知りました。警官は家の中から沢山の大法の書籍と資料を没収して去っていきました。

 その日から、父と母は警官に強制連行されたり、釈放されたり、この繰り返しでした。父と母は何箇所もの労働教養所や留置場で虐待と拷問を受けました。せっかく釈放されても時々警官がドアを壊して侵入するなど日常生活が侵害され続けてきました。その結果父と母は家にいられなくなり路頭に迷うようになりました。私も追い詰められて学校を辞めて田舎の叔母さんの家に住み、近くの学校を通うようになりました。ある日、父と母の行方を調査するため、警官が叔母さんの家にやって、見つからない場合私を人質にするとおばあさんを脅迫した。伯母さんが私のことを心配して当日の夜、私を連れて家を離れました。私たちは大通りを通るのを恐れて、畑の中を十キロ以上歩いてなんとか親戚の家にたどり着きました。当時私の頭の中では両親のことが心配でなりませんでした。そして自分も警官に逮捕されるを恐れていました。毎日夜布団に入って一人で泣いていました。何故両親の病気を直してくれた功法を修煉していけないのか、何故もっと良い人になることが原因で逮捕されるのか、私にはどうしても理解できませんでした。

 その後、時間が経過するに連れて親戚も私の事で自分も逮捕されるのではないかと心配し始めました。私はそこにも滞在できなくなり、不安を感じながら自分の家に帰らざるをえませんでした。その後ある日、警官が突然夜中に家のドアを壊して侵入した。熟睡している私は布団の中から起こされました。私は下着しか着ていませんでした。警官は私の下着姿をみてボディチェックを強要した。私は怖くてなりませんでした。それ以来、トラウマになった私はドアをノックする音を聞くたび心拍が早くなり、恐怖を感じるようになりました。昼間は誰とも会わないように自宅に閉じ籠って、毎日両親が早く戻ってくるのを待っていました。両親が戻ってきたら、自分も他の子供のように正常な生活を過ごすことが出来ると思っていました。夜になると怖くなり、ネットカフェに泊り込みで何とか日々をすごしていました。

 しかし残念ながら、結局両親は再び逮捕されました。2003年、母がジャムス労教所から釈放されて帰ってきたとき、大変やせこけて体重が僅か30キロあまりになりました。母は50歳にもまだなっていないのに、歩くときに杖を使うようになりました。

 (つづく)

 2009年10月11日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/10/7/209904.html

■関連文章