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「口から蓮華」の言葉が現れることから思いついたこと

(明慧日本)数日前から「口から蓮華」の言葉が現れ、頭の中に繰り返し現れてきました。この言葉は現在常人社会では機知に富む話をすると言う意味ですが、修煉者には違う意味があります。

 私達の話が全部法理上にあるとき、口に出した一つ一つの言葉は蓮華のように純粋です。もし私達が口に出したものが全部人間の名、利、情の執着であれば、口に出した物は異なる空間ではどんな物になるのでしょうか? 執着の程度によっては雑草であり、ごみであり、甚だしくは汚い物にもなるでしょう。

 もし万物に全部生命があるならば、私達が口にした言葉も同様に生命があります。さもなければ、私達が真相を伝える時に発した言葉に凄い力とエネルギーがあるわけがありません。「あしざまに中傷する」の言葉にもあるように、言葉の正負の表れも真実に存在する物です。ですから私達が発する言葉が「口から蓮華」なのか、それとも口から汚い物を吐き出すのかははっきりした道理ではありませんか? この道理が分かっても、私達はまだ善ではない話をするのですか? まだ人と争ったり、責めたりするのですか? してはなりません。もし、私達の思想や言行が佛性で満ちているならば、私達と話す相手は正念の場、善の場に包まれています。このような雰囲気で真相を話したならば、異なる空間の良くない要素は容易に取り除かれ、人々は容易に真相が分かるようになるのです。

 言葉は思想の表れです。自然に「口から蓮華」を発するまで達するには思想中の良くない執着心を捨てなければなりません。主観的に自分の話を抑えるのは表面の問題を解決するのに等しいのです。修煉の過程で絶えず自分の執着を意識し、不正な物を絶えず正すべきです。

 私達は善なる言葉を使い、善なる語調で話す時本当に大きいエネルギーがあり、悪い物、不正な要素を解体することができます。大法弟子として私達は思想、言行、あらゆる面でますます純粋になるべきです。私達は口を修めることをより良く行い、私達が発する言葉で「真、善、忍」の品性を現し、衆生を救い済度する法器とすべきです。発する言葉で大法弟子の美しさを表現しましょう!

 2009年10月21日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/10/15/210397.html

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