■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/01/14/mh163612.html 



情に阻まれることなく より効率良く人を救う

文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は、常人の生活の中で何かをする時や、真相を伝える時にいつも親しさを重んじていました。最近「なに事をするのにも親しみを重んじる」のが私の修煉の中で人を救うことの妨害になり、発正念の威力もそれに束縛されている事に気づきました。

 かつて私は、親戚や友達、あるいは知人に真相を説明する時に、いつも親しさが気になって、私が言うことを彼(彼女)は受け入れることができるかどうか、誤解を招くのではないか、私が何かを企んでいると思われるのではないだろうか、もし彼(彼女)が誤解して争いが起きたらどうするか、友情に影響するのではないか、などと心配していました。異なる人に対して異なる心配があり、気にすることが多くなって、人心で物事を判断するので当然疲れました。人情に気をとられており、真相説明は純粋ではなく、効果もよくありませんでした。肝心な時に親しさに気をとられて妨害されました。親しさから抜け出すことができないと真相説明がうまくいかず、世間の多くの人が救われる機縁を失い、「自然に任せる」と知りながらも、そこから抜け出ることができず、心はとても苦しかったです。その束縛から抜け出すことができないのは、親しさに対する正しい認識が出来ていないことに気づき、それを根そぎ取り除くことにしました。

 心を静めて考えてみると、人と人の感情を重んじ、何をするのにも親しさを重んじることは、自我を重んじる執着なのです。よく考えて見ると、真相説明のときにびくびくすることは、自分の感情が損なわれることを気にし、人との争いを気にし、人と人との表面的な友情が損なわれることを気にしています。その本質は、自分が傷つけられることを恐れており、他人のために考えるのではなく自分の事だけを考えているのです。それにより自然に恐れる心が出て、何もかも気になるのです。あれこれ恐れ、甚だしきに至っては真相を言えなくなり、衆生の生死も気にしない、それはほかでもなく「私のため」の「私」です。

 親しさに対して正しい認識ができてから、私は正念を発してそれらを取り除き、実践の中で人情の束縛を切り捨てました。ある友達は私と食事をする時に、最近食欲がないと言いました。その時、私は真相説明をしないつもりでしたが、その考えを改めて「これこそ人情なので切り捨てなければならない」と思って、彼女に「大法は素晴らしい」を念じるようにと伝えました(彼女はすでに三退しました)。そして、アルゼンチンの国際法廷で江沢民らが法輪功への迫害の罪で逮捕状が出されたニュースを教えました。それを聞いて彼女は驚きました。事務室に帰って来て、みんなで一緒に話をしていた時、意外にも皆の話題は政府の腐敗と社会のさまざまな良くない現象についてでした(以前はいつも私一人が話していました)。その時、私は彼女達の話す内容に動揺せず、理性的に聞きながら補充しました。話題の最後に災いの源は中国共産党だと言いました。

 今回の皆の話合いの全過程で、共産党の弁護をした人はいませんでした。最後に、共産党が人の考えを変異させ、人々は自ずと共産党に騙されたと、皆が思っていました。私は自分の空間場を正し、話は多くなくてもエネルギー場がさらに純粋になって、力が強くなっていると感じました。皆の思想がこのエネルギー場によって自然に正されました。皆の心が打たれ、認識がさらに正しくなり、救い済度する効果が良いと思いました。本当に「内に向かって修煉しなければならず外に求めてはいけない」のです。

 2010年1月14日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/1/9/215954p.html

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