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近距離で発正念した体験


文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は大法弟子を迫害している拠点の近くで発正念しようと決めたとき、邪悪に隙を与えないように自分の修煉状態を一番良い状態に保とう、そして、周りの同修に良い場をもたらそうと心に決めました。発正念の目的がはっきりとしており、中に監禁されている同修を救うこと、徹底的に邪悪を解体してその拠点をなくすことです。

 朝の暗いうちに若い同修が車で私達を迎えにくる予定でした。私は集合場所に着くと、先に着いた同修が冷えた朝食を食べているところを見ました。同修の和やかな表情を見て、心が打たれました。

 平穏な気持ちを抱いて、私達は発正念したい現場へ出発しました。その日は寒かったため、車の窓に氷が固まっていて、前が見えないほどでした。途中で他の同修とも合流しました。遠方から来た同修達は苦労を厭わず、早くから着いていた様子でした。目的地との距離が相当あるので、皆は車の中で先に発正念し、法を学んでいました。なぜか分かりませんが、同修の朗読した法を聞くと、法に感動を覚え、涙が何度もこぼれそうになりました。師父がまさに私達を子供のように、絶えず優しく注意してくださっており、その上、絶えず私達を励ましてくださっていると感じました。「一日師たれば、終身父たり」の思いが心に浮かんできました。

 目的地に到着すると、私達は車の中で大法弟子が監禁されているところに向けて正念を発し始めました。私の全身は気が一杯吹き込まれたかのように膨張し、軽くて身体の感覚すらなくなり、思惟だけが残っているようでした。

 天目の中で暗い空間場が現れてきて、しばらくすると、空間場がだんだんと明るくなり、また逆に戻るの繰り返しでした。おそらく、全体としての心性が法の要求に符合していない原因で、勝負の決着がなかなかつかないのだと思いました。

 天目の中で別の空間場で頭がツルツルとした怪獣が水の中に潜って応戦せず、たまに水面から両眼を露出したと思うと、またすぐ潜っていなくなります。このとき、ある同修が何か見えたかと尋ねてきたのですが、私は同修達の気分を害したくないと思って、詳しく言わず、ただ空間場がよくないと答えると、すぐ、もう一人の同修が「見えても見えなくても皆同じです」と言いました。最初に耳にしたとき、反論したかったのですが、法を学んだばかりなのに、法に従わないと学んだ意味がないではないかと思いました。着実に実行に移してこそ、修煉したといえるでしょう。

 これは別空間の邪悪が隔たりを仕立てたものかもしれません。トラブルを起こし、怒りを感じさせ、正念がなくなり、私はその手に乗りません。私達は一体であり、誰かに不足があれば黙々とそれを補充してあげ、不満を言って非難したりしてはいけません。もし、あなたが円満成就になれば、あなたの世界にさまざまな性格を持っている衆生がいて、あなたは寛容で寛大な心を持っていなければならないと考えると、私は新たに自分を調整して良好な状態に保とうとしました。

 このとき、別の一台の車にいる同修がティッシュをもらいに来て、ある同修が車酔いで吐き出したと言いました。心性が法の要求に到達していないため、邪悪から妨害されてしまったのです。私達の側にいる同修も絶えず咳をしていました。

 次に、私達は別の拠点へ移し始め、移動の途中で、発正念をする前に、自分の修煉状態が良くなるように調整し、正念をより強くしました。考えすぎると執着となり、あまり考えないように、と同修達に言うべきではないかと考えました。しかし、言い出した途端に、ある同修がすぐ「では、修煉状態をよく調整していないと、正念を発する資格がないということですか」と反論されました。私は「良くなるのは、良くないのよりいいでしょう」と答えると、彼女は笑顔になり、私も微笑みました。それで、「中で監禁されている同修の主元神と別空間いる身体が目覚めて、私たちの発正念と協力し合うように」と一念を加えるようと提言しました。

 こうして、私達は大法弟子を監禁する一つ一つの拠点を回って発正念をしました。発正念しているうち、皆の心性がだんだんと法に近づき、正念の威力も増す一方でした。2回目の拠点で片手を立てた瞬間、別空間の邪悪がすぐ大量の犬を放し、大きさはさまざまで色もまちまちの犬の大軍が襲い掛かってきました。人間の空間で付近から犬が一気に吠え出しました。同修達は強い正念を発し、打ち出した神通力がたちまち前列にいる犬を消滅しました。当然ながら、私達は師父のご加護の下で行っており、師父が私達の周りに金色の覆いを被せてくださって、保護してくださいました。私達は目の前の犬を消滅したのですが、遠くにまだたくさんの犬が残されており、全滅していませんでした。

 このとき、機械でできたとてつもなく大きなサソリが、私達のところへまっすぐに這ってきました。突然、サソリがある同修の脚に噛みつき、金色の覆いから引っ張り出すと、同修はたちまち倒れて脚を怪我しました。しかし、この同修は人間の空間での体が覆いの中にまだいるのですが、脚だけが外にあります。この同修が自分の修煉の道に隙があるということを表していると、私は考えました。

 皆の心性がますます上がるにつれて、五つ目の拠点に向けて発正念するとき、別空間に悪に報いに遭った悪人が多くいるのが天目で見えました。突然死やあるいはバイクに乗って雷に打たれたとか、悪病にかかったとかさまざまな形で報いに遭ったのです。人間のところでまだ生きているのは寿命が終わっていないからです。師父は『米国中部における説法』の中で「人間は何をしても、それに対して責任を取らなければなりません。受動的でそうしたとか、でまかせで言ったとか、または圧力の前で言った、やったとか、あるいは邪悪に操られてやったとかを言って、責任を取らなくても良いと思っていますが、全く関係ありません。これらのことは言い訳にはなりません」とおっしゃった通りです。

 以上の発正念の体験を通して、自分の認識を述べて交流したいと思います。法に基づいていないところがあれば、慈悲なる指摘をお願いします。

 1、この項目に参加している同修は、まず前日から発正念すべきだと思います。自分の空間場を浄化し、邪悪の妨害を取り除き、参加する同修が如何なる妨害も受けないように、翌日のことが順調に進むように加持してあげることです。

 2、もしやると決めれば、発正念の目的を明確にする必要があります。発正念を通して同修を救い出し、邪悪の巣を取り壊し、より多くの衆生を救い済度することを目的にし、自分のことを解決したい、向上したい、病業を減らしたいなどと考えてはなりません。これはすべて「私的なもの」です。「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり」と言われているように、修煉者は必ず自分の修煉状態をよく把握すべきで、衆生を救い出す思いを出発点として発正念すればこそ、威力が大きくなれるはずです。

 皆が一緒に何かをするとき、さまざまな要素で違う意見が出るかもしれません。ときにはトラブルと誤解を招いてしまう場合もあります。そのとき、当事者であろうが耳にした同修であろうが、皆が内に向って探すべきです。自分が取り除くべき人心を持っていないかを見てみる必要があります。くれぐれも同修を叱責したり、不満をこぼしたり、常人以上にひどく争ったりするのは決してやってはいけません。それは邪悪が一番喜ぶことでしょう。もしかして、その揉め事は邪悪が作り出したものかもしれないし、師父が私達の向上のために按配してくださっていたかもしれません。たとえ同修の過ちであっても、善意を持って真心を込めて指摘してあげるべきです。修煉者なら、だれであろうと過ちを犯すものです。

 時にはある同修が他の同修に対して不満を持つと、取った行動には善が全く足りません。会話からも少しの慈悲心もない上、誠意も感じ取れません。師父が法を広めるとき、言動で私達に示しておられます。法を説くときの口調を例にすれば、いつも慈悲にあふれています。師父が説かれた宇宙の至上な法理であるにも関わらず、強制的に私達に何かをさせたことはありません。いつも慈悲を持って私達に教えてくださっており、私達が自分で悟れるようにしてくださいます。私達はどんなに意気地がなくても、精進していなくても、師父は必ずいつも根気良く絶えず法理を説いてくださいました。その上、励ましてくださいました。

 私達は慈悲心を持っていないと、正神のエネルギーを身に付けることができません。正念を発しても威力がありますか? 皆が同修に慈悲を持って接すべきです。同修の昇さんが書いた詩『同修の縁』の中で描写したように「長い歴史を経てようやく法の縁を結び、円満成就になれば、顔を合わせることさえ難しくなり、私心のない忍は広大な海よりも広く、手を合わせ、肩を並べ共に法船に乗ろう」のようにすべきでしょう。

 内に向って探し、無条件で同修と協調し合い、邪悪に隙を与えないように、金剛不破の一体となるべきではでないでしょうか。

 私達は帰宅の道でも、発正念を止めず、通り過ぎた衆生に妨害を与えるすべての悪い要素を取り除き、皆が救われるようにと発正念し続けるべきだと思います。

 同修の皆さん、私達はこの正法のプロジェクトを始めたばかりで、不足や間違いなどがきっとあると思いますが、多くの同修が積極的に参加し、良い提案を出すよう願っています。そして、私達はきっとよくできると信じています。

 もし私達全員が難儀に遭うたびに内に向かって探し、同修とよく協力し合い、そのうえ、相手の立場に立って物事を考え、同修の優れた所をよく見て、真に師を尊敬して法を敬うようになり、そして、いつでもどこにいても正しい念、正しい行いができれば、私たちはきっと金剛不破の一体となるでしょう。そうなると、邪悪の存在する理由がまだあるでしょうか。

 この場をお借りして、偉大で慈悲な師父に新年のご挨拶を申し上げます。同時に、同修の皆さんにも新年の挨拶を送ります。

 2010年2月7日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/2/5/217552p.html

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