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個人の要求や基準は法ではない


文/河北省の大法弟子

(明慧日本)この数日、同修である妻を見て目障りと感じ、妻の成すことを気に入らないのです。

 そして妻に対してこのことがよくできてないとか、あのことは計画性がないとか、行うことには原則がないとか、「三つのこと」がきちんと協調して行っていないとかなどなどの文句を言っていました。

 妻は当地の強調人の一人です。最近は法を実証するためにすることが多すぎていて、それから正月が近づき長期休暇に入るため、光ディスクや消耗品及びプリンターを購入したり、同修にパソコンの使い方を教えたり、彫刻の機械を修理したり、強制収容された同修を救出するため、同修の家族と連絡したりしてとても忙しくしていました。

 そのため最近はかかる電話が多くなり、我が家に出入りする同修も増えました。

 妻の忙しさを見ていた私は手助けしたのではなく、逆に妻に対して、やることに基準がない、効率が悪い、計画性がない、話す言葉は適切ではないなどなどと叱責していました。

 このような不平不満で一杯だった私はある日、仕事中に板のうえにささっていた釘が足に刺さったのです。痛かったのですが、私は痛みをこらえて仕事を終わらせました。翌日は休みでしたので、家で師父の説法を聞きながら、内に向けて探して見ました。自分には自己を実証する心、自分には能力があると思い、法を実証する中で歓喜心が表れていたと分かりました。

 しかし、肝心な執着心が見つからなかったような気分で、最近、自分の不平不満がどの執着心によるものかは分かりませんでした。

 この晩に二人の同修が我が家に来て、交流したいと言いました。私は自分の最近の修煉状態について話しました。

 私の話を聞いた二人の同修は、私に非があるといい、私は妻に対しても、同修に対しても要求が厳し過ぎる、基準が高すぎる、特に自らの高めたことを強調しすぎると言われました。

 私は自分が話しているときの口調が強く、善が足りないということを認めました。だからいつも自分によく言い聞かせていて、かんしゃくが起こしやすい性格、話す言葉や態度に注意すべきと気をつけていました。

 でもよい状態は長く続けることができず、また前の状態に戻るのです。交流の中で二人の同修も以前、私と同じ性格だったそうです。内一人の同修は私の不足から、自分の不足を発見したと話されました。このとき、私は始めて自分が一つの原則を誤って犯していたことを認識しました。

 私は小さいころから正直で率直な性格、どんなことをするにしても几帳面のうえ、言ったことを必ず実行するという、原則がありました。自分は家族に対しても限度を超えた高い基準で要求していました。

 このような性格を持っている私は修煉の道に入ったのですが、学法しているうちに大法の高いレベルの基準、高い境地のことや修煉の厳粛さが分かるようになり、同修は自分に対して厳しく律しなかったため、邪悪に乗じられ迫害を受けたこと、資料点が妨害され、新しい資料点の立ち上げがなかなかできなかったことを見てきました。

 これらはすべて同修の執着心が取り除かれておらず、次元の向上がしていないため、行うことに基準がないので、迫害されたのです。これらのことが原因で、知らず知らずのうちに以前の自分がいわゆる「原則及び高い基準」を取り除かれていなかったのです。

 しかもそれを師父の法に「良い部分を残し、悪い部分を除き、」(『転法輪』)に適していると思いました。数年来、これが自分の優れた点であり、これの影響があったからこそいろいろな法を実証する事を成功させたとさえも思いました。

 さらに自分の「固有観念」こそ正しいと思い、法に適していないと疑ったことはなかったのです。

 同修がよくできていないときや、私に不満不平が現れたときも、自分の観念が作用しているとも考えなかったのです。この中に共産党文化の要素が含まれていたのです。 大法弟子として、人に寛容・慈悲・善を持って穏やかな気持ちで接し、他人のことを先に考えなければならないということを分かっています。

 しかしその場に立たされたときは骨の髄まで浸透していた固有観念が作用してしまうのです。実は大法が違った次元にいる修煉者に対して要求も違うのです。

 このたびのうちに向けて探したことを通して、違った次元に取り除かれる執着心があることを発見しました。

 時には執着心を持ったまま一つのことを成功させたことはあるのですが、自分が昇華すべきときが来れば、以前の執着心や経験を取り除いて、次のことを成功させることができるのです。

 大法の私たちに対する要求は、無条件でできなければならず、これが第一なのです。自分の観念や基準で計ってはなりません。物事を計る唯一の基準は法であり、だから法をよく学び、法の中から法理を悟り、法理から解決作を悟るのです。

 人の頑固たる執着心は自分を覆い隠し、放棄しようとしないもので、自分はそれを得意げにし、修煉によってよくできているとさえも思っていました。要するに自分が思っている「優れた点」で大法の基準として物事を計ってはならず、でなければ自分の察知し難い執着心を探し出すことが難しく、よりよく衆生を救えなくなるのです。

 多くのときは、執着また根本的な執着が人が思う「優れた点」の中に隠れるので、察知し難いものです。

 執着心を見つけた後、身体がすぐ膨れるような感じがして、腹が下り始めました。それは執着のよくない物質が解体され排出されたと思いました。その直後からだが軽くなり、以前のような不平不満がなくなったのです。

 個人の認識なので、不足なところがあればご指摘してください。

 2010年2月20日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/2/15/218167.html

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