内へ向かって探し、法の中で向上する
文/中国の大法弟子
(明慧日本)最近同修の文章「同修は鏡である」を読みました。他人に指摘されたくないという心と、同修の不足を見て逆に自分を修めるという二つの点について語っており、とても深く感じました。同修は鏡であり、自分の良くない部分が見えることで内へ向かって探し、自分を修煉することができます。
最近、心性を向上するきっかけになる事件がありました。私たちの地域にある年配の同修が病業を乗り越えることができず亡くなりました。みんなはとても悲しく思い、内へ向かって探しました。亡くなった同修が病業を乗り越えようとしたとき、私たちは集まって発正念をし、その同修と一緒に学法をして助けようと努力しました。しかし、この過程で、私たちの不足が暴露され、人心が現れて、言うべきではないことを言いました。たとえば、若い時、姑が悪い人だったとか、連れ添いの悪口を言ったりして、そのことはさらに同修にまで広がりました。当時は同修の不足は鏡と思って自分を照らしてみませんでした。その後、年配の同修と交流して、今後そのようなことを言わないように、人心を放棄するように言いました。
私はまた別の同修と交流をして「私たちがあれこれ言って何の効果があるのですか? 私たちは法に基づいて同修を助けるべきで、彼らの正念をもっと強くすべきです」と言いました。交流のとき、自分の態度は良くなく、私はただちに内へ向かって探しました。言えば言うほど落ち着かず、どんな良くない物質が働いているのかと自分に問いかけました。最近、師父は各種の方法で私を悟らせてくださいました。長年ずっと机の上に写真が置いてありました。ある日、そのフレームが倒れているのに気付きました。直してしばらく経つとまた倒れます。このような事が数日続きました。
なぜだろうと自分に問いかけました。私は「放棄すべきだ」と悟りました。何を放棄すべきなのかと思いました。同修と交流するときのことを振りかえるとき、「同修は鏡です」の文章を思い出しました。同修という鏡を使って自分を照らしてみました。自分には他人に指摘されたくないという心があり、自分が正しいと思っていました。師父はこうおっしゃいました「神から見れば、修煉者がこの世において、正しいかそれとも間違っているのかはまったく重要ではなく、人心の執着を取り除くことこそ重要であり、修煉の中でどのように人心の執着を取り除くかが重要なのです」(『マンハッタン説法』) 私は悟った後すぐに師父に言いました。「師父、私はこの良くない物質はいりません。徹底的に解体し、滅します」と言いました。そして、「修煉の事言うと雖も 心中の執着を去るべし 自己に非るを切り捨て それらすべて是迷中の痴」という『洪吟二』の「執を去る」を思い出しました。
真に内へ向かって探し、よくない人心を探し当て、徹底的に放棄し、師父が良くない物質を除去してくださったとき、身体が一気に軽くなり、考えが一瞬に宇宙のように広がり、すべてを包容できる感じがしました。万事万物の順序が見え、振り返って同修を見ると、何ごとも起きていないように感じ、心がとても落ち着いて、すべてがめでたく、静かに見えました。
私はこの気持ちを思い出すと、涙が出ました。再び私たちの師父がどんなに慈悲で偉大であるか、大法弟子になることはどんなに光栄なことか、師父の慈悲なる啓示と済度に感謝し、師父が私たちに同修たちがともに向上する環境、修煉形式を与えてくださり、私たちが互いに切磋し、ともに向上することができることを感謝します。私たちはこの聖なる縁、修煉の環境を大切にし、師父の期待に背きません。師父は私たちの成熟を待っておられます。同修たちとともに向上し、ともに精進し、師父の正法の過程についていき、私たちの先史からの大きな誓いを果たし、円満成就し、師父とともに帰ります。
2010年3月30日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/3/29/220616.html)
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