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執着の解体について


文/中国の大法弟子

(明慧日本)長い間、ある執着に戸惑っています。それはいつも怒りっぽいことです。修煉を精進していないことで、最近2、3年来とりわけ怒りがちで、家族と同修によく指摘されています。今私はこの問題についてもう軽視できないようになり、これによるいろいろの妨害についても考えています。ここに書き出して皆さんと交流したいと思います。

 いつも何かが気に入らず、順調に進まない時に、たとえ少し待たされ手数(仕事をするのに要する労力・時間)がかかると、すぐに怒ってしまいます。ここが不合理だ、そこの担当者の態度が悪いなどと不満がいっぱい湧いてきます。いつも神経が疲れ、身体もだるくなり、他のことをする時も落ち着いていられなくなります。

 ずっと、私の忍耐力が足りないと思っていました。待たされたり手数を掛けられたりすることは日常茶飯事なのです。なぜ自分が耐えられないでしょうか? 待たされて順調に行かないことで私の時間が無駄になり、自分が損をしたと思い、自分がなめられたと怒りが噴き出ます。従って、私は再びこの事に出会った時は、それは心性の向上に良い機会なのだと思い、自分の容量を拡大しなければならないと思います。しかし、この状態は変わらず、ずっと向上していません。

 家で探し物をするなどの小さいことにも怒って、その心はとても強く、知らない敵にきっと勝ってやろうと思い、強い闘争心がありました。

 なぜ怨恨や不満がいっぱい出てくるかと言うと、実際起こることが自分の意志と違い、私に逆らっているのです。これは強烈な自我で、修煉中に無くさねばならないことです。物質と精神は一致しているので、私の空間場にそれは物質的に存在しています。それは一塊の黒い物質で、その中に恨み、怒り、不平、焦燥(目的の事がなかなか実現しないので、気があせること)などがあります。それは旧勢力の按排か自分の業力かもしれません。これに対して私はめったに発正念をしないし、その存在も気にしなかったため、自分の性格だと勘違いしています。私の観念では、自分が怒りっぽく、心が狭い人間だと思い込んでいます。だから物質がずっと私の空間場に居続けています。私はよく学法して心が落ち着いた時にその物質もないのです。私が油断したら、すぐ隙に乗じて、その黒い物質も叫びながらどんどん大きくなり、私の心身が抑制され、怨みと悪しか感じなくなります。

 ここまで考えて私は再び自我と自分の執着とは違うものだと認識しました。私は修煉しているので、執着を全部なくさねばならないのです。執着は私の空間場に寄生して、居続けたいのです。私の正念が強ければ執着を抑制し、消滅することができますが、正念がない時、常人と同じようになったら抑制が出来ず、それが逆に強くなります。魔を利用して向上する修煉方法は歴代の小道修煉であり、業力を完全に消滅しないうちに人間的な寿命もすでに終わってしまい、輪廻転生するしかありません。法輪大法は宇宙の大法であり、「これに対して、われわれはねらいを定めて、本当にその心を指摘し、その心を取り除くわけですから、修煉の成果を得ることがきわめて速いのです」(『転法輪』)と師父が仰いました。

 大法弟子はトラブルに面して、自分の執着を知りそれを取り除こうとすれば、大法の機制と師父の加護により執着を解体することができます。そして師父は発正念という宝を与えられたので、弟子は自分の神通を使って自分の空間場を整理します。このような修煉方法は数千年来の修煉者にとって想像もつかないことです。大法弟子は師父にこのような修煉を按排されました。これは大法弟子の出自が高く、衆生を済度する使命が高いからなのです。

 ならば私たちは修煉の中で、執着を解体すべきです。私たちは自分の空間ともっと広範囲の宇宙空間を主宰しており、受身的に執着の存在を容認してはなりません。以前容認している原因について私はいくつかの原因を分析しています。一つは執着が自我ではないことを知らないことです。二つはこの執着の認識不足で、決心が足りません。三つは大法の修煉は人心を目掛けて修め、神通を通じて悪を駆逐し、慈悲に怨恨を善解することについて理解していないのです。もし皆が発正念を重視して、毎日続ければその功は毎日邪悪を解体します。するとあの物質は毎日消滅されて、表れる機会がなくなり、もしくはとても弱くなります。そうなると大法弟子の空間場が和やかになり、どの執着に対してもわざわざ発正念をする必要もなくなります。

 この腐敗した物質がずっと私の空間場に威張っていることは、私がずっとよく発正念をしていないことが原因だと思っています。それは私ではないと法理上で理解したら、それを無くすことも難しくないと思います。怒りたくなる時に、その物質はまた表れたと私は認識しました。それを消滅しなければと思えば、簡単に行えます。それを真に見分けているかどうか、それを無くす決心が強いかどうかが難しいですが、執着を無くすこと自体は難しくないと今は理解しています。しかし、執着を認識してからそれを断固消滅するまで、この過程を私は伸ばしすぎました。この過程の長さは、修煉者の精進状態につながります。執着を無くす過程は人が神になり、人と決別する過程です。精進修煉の人が速く執着を認識してさらに消滅することは、人間が何が必要で何がいらないかをはっきり分かることです。不精進の人は情の中に浸って、人の感受に左右されて、切り離しがたいのです。もし執着が私たちを束縛して、昇天させないと認識したら、それを切りたくなりますか? 執着は生命を向上させないだけではなくて、さらに一つの生命を壊滅するかもしれません。

 この怒りっぽい執着心について私はさんざん見分けて、それがすでにおわっていると感じました。さらにそれは個人的な執着心だけではなく、私が衆生を済度する道に置いてある障害と認識しています。そう考えた後に私は次第に大きくなり、執着がどんどん小さくなったと感じています。執着を消滅することも当たり前になります。

 最近の浅い体得であり、不足のところはご指摘下さい。

  2010年4月25日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/4/19/221777.html

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