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腐ったイチゴが新鮮なイチゴに変わった


文/中国の大法弟子

(明慧日本)数日前に相次いで同修との心性のトラブルがあり、自分なりにずっと内に向けて探しましたが、常に同修が間違っていると感じ、誰が正しく、誰が間違っているかの争いに陥ってしまい、その現れとして、何が修煉であるか分からなくなり、自分を修めることができなくなっていました。

 師父の『マンハッタンでの説法』の中で説かれた「言い争わないでください。誰が正しいか、誰が間違っているのかを強調しないでください。いつも自分が正しいと強調する人がおり、あなたが正しいのであって、間違っていませんが、それはどういう意味があるのでしょうか? 法に対する認識が高まったのでしょうか?」を読み、夢から目が覚めたようでした。師父は私たちに向上するよう、私たちに昇華するよう要求されていますのに、私は向上できず、ある箇所で走り回っています。同修が正しくないと見えたときこそ、自分が修めるべきときではないでしょうか?

  同修に現れた良くないところは本当に同修のことでしょうか? 同修のことが気に入らないと思うのは本当の私自身でしょうか? 師父は大法弟子のすべてを管理しておられ、みな素晴らしい生命なのに、どうして、それが同修自身でしょうか? どうしてそれが私自身でしょうか? 私はどうして偽者の彼(彼女)と偽者の我の中に陥って、誰が正しいか、誰が間違っているかを講じるのでしょうか? 私は突然自分が間違っていると悟りました。

  その瞬間、同修に対する不満、けちをつけようとする気持ちがなくなり、私の空間場は比類なく清らかになり、同修の確固たる信念、同修の善、同修の素晴らしいところすべてが私の頭に映されてきました。同修との縁を大事にし、共に精進し、師父に従って法を正し、衆生を救い済度し、世にきた時の誓いを実現しようと思いました。師父は私の精進しようとする心を見て、相次ぎ私を励ましてくださいました。

 ある日、長年私と一緒に厳しい時期を歩んできたある同修が我が家にやってきました。彼女は私に1キロのイチゴを買ってきました。私はイチゴを洗った後、腐ったイチゴを数個拾い出し、残りを師父にお供えしました。イチゴは水に触れると腐ります。夜になって、同修の家で学法が終わり、家に帰るとき、師父にお供えしたイチゴのことを思い出しました。すでに一昼夜以上すぎたのでもう腐ったと思いました。我は一緒に歩いていた同修に、家に来てイチゴを食べてくださいといいました。同修は我が家に着いて、イチゴを食べる代わりに、「めったにない機会だから、私たち3人で一緒に煉功しましょう。イチゴなんかどうでもよいから」と言いました。そして、私たちは煉功しました。煉功が終った後、私はよいイチゴを選んで同修に渡しました。残りの数個の腐ったイチゴはテーブルの上に置き、翌日食べられるなら食べるし、だめだったら捨てようと思いました。

 夜が明け始め正念を発し終わったとき、まだ眠気があったため眠気を追い出そうと、イチゴを一つ手に取り、口に入れました。意識の中ではイチゴは腐っていたのに、なぜ腐った味がしないのかと思いました。私が振り返ってイチゴを見ると、なんと昨晩腐っていたイチゴはみな新鮮なイチゴに変わっていました。私は喜びを言葉にすることができませんでした。私は、これは師父が私を励ましてくださったのだと悟りました。私は引き続き、何個か食べました。本当に甘かったのです。私は本当に街に走って行き、「大法は万能です! 私たちの師父には出来ないことはありません。腐ったイチゴが新鮮なイチゴに変わりました! 如何なる良くないものも良いものに変わります」とすべての人に教えたかったのです。自分が喜びに包まれているなかで、突然これほどすばらしいことをなぜ同修と分かち合わないのかと思いました。

  当時、イチゴは三つしか残っていませんでした。三つでもよいと思い、同修を我が家に呼んできました。我が家にやってきた数人の同修は大法の素晴らしさを目にしました。1日経ったあと、私にイチゴを買ってきた同修がまた訪れました。私は同修にイチゴの話をしました。当時、イチゴはまだ2個残っていました。彼女は「おばさん、この二つのイチゴは私が食べないといけませんね」と言いました。食べ終わったとき、彼女は「なぜ食べる前に写真を撮らなかったか」と悔しく思いました。

 またイチゴと同じようなことが3回ありました。同修が家にきたとき、同修に餃子を作ってあげましたが、当時あんが3分の1ほど、残っていました。翌日明け方に私たちは慌てて田舎に行き、そちらの同修の家に2日泊まりました。家に帰ってきたら、すっぱいにおいがしました。すぐ餃子のあんが腐ったと分かりました。捨てるのはもったいないし、師父も無駄にしないよう教えてくださったし、どうしよう? と思いました。その時、私はイチゴのことを思い出し、あんも良くなると思いました。私はあんにいいました。「あなたは最高のものだ、あなたは法のためにやってきた生命であり、大法弟子のためにやってきた。あなたにもし来世に誓いがあったなら、それを実現しないといけない」と。こうして私はそのあんを餃子で包んで食べましたが、新鮮なあんで包んだ餃子と同じ味でした。

 その後、また同じようなことが何回も発生しました。突然田舎に行くことになりました。2日後、帰ってきたら、あんが腐っていました。私は上記と同じ方法でそのあんで餃子を包みました。依然としておいしい餃子でした。

 私と親しかったある同修が我が家にやってきたとき、私は彼女にイチゴの話をしました。彼女はちょうど夫の同修と心性のトラブルで悩んでいるところでした。私の話を聞き終わって、「今日イチゴの話を聞いたのは、偶然ではない、私は自分が救われると感じた。腐ったイチゴが新鮮なイチゴに変わるなら、私も必ず良くなる」と言いました。

 そうですね! 私たちが共に最も残酷でもっと困難な歳月を共に手に手を携えて歩み、師に従って法を正してきた道には、私たちの足跡が残っています。法を正す歴史の中には私たちの永遠の輝きがあります。これらを考えるたびに、私は涙がほろほろ流れます。私は共に神の道を歩んできた同修のために、誇りを感じ、師父が繰り返して私たちを認めてくださり、私たちを大切にしてくださり、私たちが偉大だとおっしゃったことに誇りを感じます。修煉の中で、もし倒れたとしても、必ず立ち上がり、身についた汚れをきれいに洗い、引き続き前に進み、師父の呼びかけに背かないように、衆生の切なる期待に背かないように、手に手を携えて最後の道をしっかり歩み、再度輝きを築き、この世に来た願いを完成させ、師父についてもとに戻りましょう。

 以上、足りないところについては、同修らの慈悲なるご叱正を願います。

  2010年5月18日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/5/10/223245.html

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