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修煉者の状態で神韻チケット販売に参加する


文/アメリカの大法弟子

(明慧日本)師父は「法を実証することも修煉であり」(『2003年アトランタ法会での説法』)と説かれました。神韻のチケット販売を通し、自分の修煉と衆生を救い済度する事は密接に繋がっていると切実に感じました。それと共に、この神聖なプロジェクトは師父が大法弟子に修煉の向上と、全体の円融、威徳の樹立のために按排して下さった良い機会だとわかりました。

 大法弟子が人間として修煉し、衆生を救い済度することも、また常人社会で常人の方式で行われています。繁忙かつ緊迫なプロジェクトの中で、学法と自分を修めることを怠たれば、常人の状態に陥りがちになり、甚だしきに至っては、正念の不足、協調の不備にまで陥り、師に従って法を正すことに影響を及ぼしてしまいます。神韻チケットの販売において、私はずっと時々刻々に冷静を保ちました。

 これは単に常人にチケットを販売しているのではなく、大法弟子が宇宙のなかで衆生を救い済度しているのだと自分に言い聞かせました。いつも修煉状態を保ち、絶え間なく正念を強め、純正かつ慈悲なる善の気持ちを持って、初めて良く法を実証することが出来、衆生を救い済度する宇宙の大事をやり遂げられると思います。

 時々刻々、修煉の状態を保つ

 法を実証する各プロジェクトの中で、すべての修煉者は全体の企画と協調において、自分が担当する仕事をこなさなければなりません。神韻チケットの販売の中で、企業への営業、チケット販売ブースの担当が私の日課でした。チラシ配り、ポスターの貼り付け、お客様に神韻公演の解説等の立ち仕事は、時間が長くなれば、疲れも出てきます。常人の考えでは、ぎっしり詰まったスケジュール、忙しい個人の仕事、重い任務に加えて、年配の私が疲労を感じるのは当たり前だと思いますが、しかし、法を学んでいくうちに、寒くても駄目、暑くても駄目、疲れてもだめで、これらはみな常人の状態であり、修煉者は常人と同じ状態であってはいけないとわかるようになりました。

 常人の状態というのは常人の心の現れだと思います。修煉者に常人の状態が現れるのは、確実にまだ取り除いていない常人の心がもたらしたものだと思います。そこで、私は内に向かって探しました、すると、自分がまだ安逸心、楽をむさぼる心を持っていることに気が付きました。私がアメリカに来たのは、師に従って法を正し、衆生を救い済度するためで、常人の生活をしに来たわけではないのに、なぜまだこのような人心を持つのでしょうか。

 真の向上は理性と実践の昇華であり、真に常人から離れ、境地の昇華を実現して、真に着実に自分を修めなければ、常に常人の心が現れてきます。なので、私は悟りました。時々刻々に修煉の状態を保ち、内に向かって真に修めてこそ、初めて真の修煉者なのです。

 法を学ぶ中で、私たちは常人社会にいますが、ここは宇宙の焦点であり、法を実証する事は宇宙における第一の事で、衆生を救い済度することは無数の蒼穹に関係しています。こんな神聖で、偉大な事は大法弟子だけがやり遂げられ、大法弟子だけにふさわしいことだと認識できました。大法弟子は衆生を救い済度するために按排された各自の持ち場の範囲が広く、この世で大勢の人を済度することを要求されています。

 この宇宙の衆生がみんな救われることを期待しているのに、私はどうして世間の安逸、安楽を求めるのでしょうか。正念が満ちているときに、この安逸心を許さないと決め、心の奥底から掘りおこしたとき、この安逸心はもう存在しなくなりました。相(人相)は心から生じるので、心と意念を正しく持っていれば、体にも直ちに変化が現れました、私の疲労感は無くなりました、1日、5、6時間から7、8時間立っていても、疲れを感じませんでした。時には、同修が私に休むようにと言ってくれますが、私はいつも「疲れを感じないよ」と答えます。

 法を実証し、衆生を救い済度する中、私は時々刻々に修煉状態を保ち、法を良く勉強し、法の高い基準に照らして自分を修めて、はじめて正念を絶えず強めることができると体得しました。正念(神念)の下で、体に不思議な状態が現れるのです。

 人心に触れ、内に向かって探し、堅実に修める

 常人社会で修煉していますと、様々な悩み、衝突と意に沿わないことに出遭います。修煉者として、高い基準に基づき、高い境地で物事を判断すれば、心が動じる事はないと思います。しかし、法を実証するとき、まだ修めていない人心に動かされることがあります、その時、気分が悪くなる様な常人の状態が現れます。修煉の中で一つの心得があります。心が動じる時は即ち常人の心が現れた時なのです。ならば、その時は内に向かって探し、内に向かって修めるしかないのです。

 神韻チケットを販売する際に、宣伝用のチラシを受け取りたくない人たちに遭遇します。その人たちの中には、中国共産党政権の悪影響を受けた人たちがおり、彼らから冷たい態度や、白い目や、馬鹿にするような態度を感じ、甚だしきには非難を受けたこともありました。

 ある時、私はビジネス街で神韻のチラシを配っていました、50代の華人がとても険しい顔つきで「あんたたちの迷信なんか信じるものか!」と私に向かってきました。当時、気分が悪く感じ、おじける気持ちになりました。つまり常人の心が動じたのです。修煉者として、心が触れられたことは、内に向かって探すサインなのです。時を移さずその人心を見つけて、取り除くべきです。もし、その時、内に向けて、自分を修めないで、あの華人男性が受けた悪い影響や、彼の悟性の悪さに不平をこぼしていれば、修煉の状態の中にいるとは言えず、自分を修める良い機会を逃してしまうのです。

 修煉者は心が動じないことについて師父は多く法を説かれました。修煉者は常人に動かされてはいけないと要求されています。これは大法の修煉者への要求で、自分たちが達しなければならない基準です。常人の行動と非難に面し、なぜ心が動じるのでしょうか? 自分が常人の心を持っているからこそ、常人に動かされたのではないでしょうか? そこで、私は内に向かって探し、法の基準に照らして、自分の負けず嫌いの心、懸念する心、困難を怖れる心、耳触りの悪い言葉を聞きたくない心を持っている事がわかりました。これらの人心があるからこそ、常人の考えや、不平不満が湧き出るのです。人心がもたらす執着は常人に触発される根源なのです。

 師父は「今日大法弟子に賦与したのは神の状態であり、あなたは神の状態に向かっていくのです」(『大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説』)と説かれました。衆生を救い済度することは、人心を取り除き、慈悲を修める最も良い機会だと思います。私が真に内に向かって修め、慈悲の心を抱いて神韻のチケットを販売する時に、常人の如何なる反応や、返事も、もう私に作用しなくなりました。法に責任を持ち、衆生が救われることは私の唯一の願いだと気付いたときに、正念がだんだんと強くなっていき、周囲の環境も変化を起こしました。

 そんな時、通り過ぎる人は友好的な態度でチラシを受け取り、返事をしてくれるのでした。周りの店員も羨望の眼差しで褒めます。ある日、1人の中年男性が私の前に現れて、「僕のこと、まだ覚えていますか?」と私に尋ねました。私は覚えていませんと答えますと、彼は「もう忘れましたか? ある企業であなたが神韻のことを僕に紹介してくれました。もう神韻のチケットを購入しましたよ」と教えてくれました。自分を良く修め、心が法に従い、無私無我の慈悲と正念を持ってこそ、初めてより多くの衆生を救うことができると教えられました。

  心性の摩擦のなかで、自分を良く修める

  法を実証し全体で協調することにおいて、同修の間は互いに認識が一致しておらず、やり方も異なります。また、皆が修煉しており、状態と境地の違いもあり、それぞれ自分の道を歩んでいるので、意見が合わないこともあります。心性上の摩擦も出てくることは当然です。肝心なのは自分のことを修煉者とみなすことが出来るかどうかだと思います、もし衝突の中で法に照らして、法の要求に従い、内に向けて探し、自分を修め、法に責任を持ち、積極的に全体で協調できれば、必ずうまくいきます。そうでないと摩擦を断ち切ることができず、溝が深くなり、上手く協調することができません。

  神韻チケットの販売の中で、ある同修とペアを組みました。最初は順調でしたが、後に意見の違いが現れました、酷く争うこともありました。けれども、法に基づいて考えてみれば、私は師父に従って法を正すお手伝いに来たのです。同修と競い合い、衝突を起こしに来たのではないと認識しました。摩擦を避けるため、私はなるべく彼女に従いましたが、しかし、事態の展開は往々にして修煉者の状態が現れます。人心を取り除かず、内に向けて探さなければ、衝突は白熱化するのです。私はずっと彼女の言う通りに行動しましたが、衝突はこれで収まりませんでした。

  彼女はあらを探し、どんなことをしても気に入りませんでした。どんなにしても叱られました。私は何度も怒りを抑え、爆発こそしませんでしたが、内心ではスカッとしませんでした。彼女のことを変わり者だ、付き合いにくい人だと思い始め、彼女を避けるようになりました。自分の悟性が低いため、これは自分の修煉への試練だということを悟れずに、常人の憤りの心が生じました。

  後に学法を通じて、自分は褒め言葉を好み、人に叱正されたくなく、指摘されることに反感を持ち、世間的な感情を持ち、しかもそれが非常に深い事を見つけました。修煉の角度からみれば、その同修がどうこうではなく、自分の人心を取り除くべき時が来たのです。自ら自発的に内を修めなかったため、師父はこのような一幕を按排されたのでした、要は皆の修煉を促進し、人心を修め、取り除かせ、観念を転換させ、心の容量を大きくして、向上させるためでした。

  法の要求に従い、真に内に向けて探し、自分を修め、人心を放下して、法の上で向上したら、同修との隔たりがなくなりました。彼女は元通りに私の良い同修に戻りました。これからも、私たちは、正しい念で正しく行う中で神の道を全うしていきます。実際に、宇宙で法を正す時期に、同修と法を実証し、衆生を救い済度する事を一緒に行える関係は、遠い昔の縁であり、しかも深く大きい縁だと思います。この得難い法を円容し、全体を円容する巡り合わせを大切にすべきだと思います。どんなことがあっても世間のちっぽけな事に人心で対応してはなりません。もしそれらの事に付き纏われたら、法を実証し、衆生を救い済度することに影響を及ぼし、千古の遺憾になると思います。

  師父は「自分の修煉が根本であり」(『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』、「修煉者にとって内に向けて探すのは有効な方法です」(『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』)と説かれました。

  法を実証し、衆生を救い済度する際、修煉者として変わらず修煉者の状態を保ち、絶えず高い要求を課し、何事につけてもまず他人の事を先に考え、矛盾が生じたら、自分を探して、真に確実に修め、絶え間なく浄化し、全体に融和し、協力して、全体で協調し合い、共に衆生を救い済度することを良く行い、大法弟子の名に恥じないようにしましょう。

  2010年6月28日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/4/22/221926.html

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