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法の中で自分を浄化する(四)

—神韻公演チケットの販売過程で修煉を向上させる

(明慧日本)

 四、同修と付き合う中で、他人のために考える人になる

 今日まで修煉して来ましたが、常人に表れたことに対しては、基本的に心が動じずにいられます。しかし、同修に表れたことに対しては、自分の心がよく動じ、不満がつのり、自分の意見を聞き入れてもらえないと、この同修はなぜこうなの、あの同修はなぜそうなの、大したこともしていないのに、と嫉妬したりしていました。

 私は悟りました。私たち修煉者は一体であり、トラブルが発生したとき、いかに自分を放下することができ、全体が協調できるか、どのように同修を見るかは、必ず修煉によってできなければなりません。それは、法の私たちに対する要求でもあり、「無私無我になること、人のことを先に考え自分を後に」という境地に達しなければなりません。

 いかに同修と付き合うかについて、この問題を今まで考えたことはありませんでした。今年になってこの問題に気づきました。以前はなぜだか同修の間のトラブルに動じやすく、同修の不足に対してどうしても指摘したくなるのです。この状態が現れたのは、同修に対して正念を持って信じていなかったからです。

 同じ法を学び、同じ法門の大法弟子であり、同修のみなが同じように悟らなければならないのですか、一部の同修は名利に執着していることを、私は理解できませんでした。この同修はなぜこうなの、あの同修はなぜそうなの、と思い、自分の気が済むまで説教し、その同修が自分の執着心を取り除き、修煉の遅れを早く取り戻してほしいと思っていました。また、ある同修は病業の魔難の中で、正法に参加しないのを見て、私は慌ててしまいます。こんなに簡単な関門なのに、なぜ乗り越えることができないのか? その同修と交流するときは遠慮がないため、言葉の中にその同修を見下す意味を帯びてしまい、なんて弱い人間だろうと思い、話す言葉には善のかけらもなかったのです。実は、私は強い観念を抱いて話そうとしませんでした。それは「同修も修煉者だから、みなと同じようにすべてのことにおいて悟らなければならず、いつも自分の観念で同修に要求し、同修の修煉がもっと良くできるようにと思いました。ですから同修の不足を見つければ、がまんできなくなり、言いたくなるのです。

 私の観念によって、同修の良い一面を見ることできず、不足ばかりを見ては大げさに考え、さらに拡張して考えてしまい、この同修は修煉者として程遠い、極端に走っている、だから同修とトラブルが起きしやすいと考えてしまうのです。そして、トラブルが発生した際に常人の争って闘う方式で解決しようとし、トラブルの程度を大きくしてしまい、以前のトラブルが解決していないのに、また新しいトラブルによって同修同士の隔たりを作ってしまうのです。

 今年の神韻チケットの販売を通して、ある出来事によって、私の観念を変えることができました。

 ある日、ある同修と一緒に小さな街にチケットを売りに行きました。この街は20日前に広告チラシを配り続けていたため、同修と相談して今日は初めてのチケット販売ですので、できるだけ多くチケットを売りましようと決めました。現地に到着すると正念を発し、お互いに協調できていました。チケットが数枚売れたところで、同修Aさんから電話がかかってきました。同修Bさんが私のことをあれこれ言っている、というのです。Aさんは私の味方のように話すので、私はAさんの話を聞いて興奮し、今までBさんに不満があったのです。私はすぐにBさんに電話をかけました。私はBさんと電話の中で喧嘩になり、電話を切りましたが、不平不満がいっぱいでした。私はチケット販売所の雰囲気を壊してはならないと思い、チケット販売所に戻ることできず、徘徊していました。そして、不平不満の状態から焦りだし始め、今日チケットを販売するためにここに来たので、衆生を救うことに影響してはならないと思うようになりました。しかし、今の心理状態では衆生を救うことができません。

 私は心を平静に取り戻し、内に向けて探し、自分を擁護する心を見つけ、Bさんを責める心をなくしましたが、元気を取り戻すことができませんでした。私は後悔し、今日のチケット販売を妨害したこと、機縁はいつもあるとは限らず、今日の機縁で救われるべき衆生を救うことができず、永遠に機縁を失い、救われるャンスを失った衆生のことを考えると、私は泣きそうになりました。そこで私は、同修とトラブルが生じたとき、いかに対処すべきかを認識でき、また修煉できていなかった不足が暴かれました。でも、どのような心理状態で同修たちと接すればよいのか分からず、一人で発正念をして良くない念を取り除いていました。しばらくしてからチケット販売所に戻りましたが、私の心理状態がまた法の要求に満たしておらず、なんらかの物質に押さえつけられたような感じがしました。

 私は黙って立っていました。一人の中年男性が近寄ってきました。私は「神韻は、世界一流の公演です」と声をかけました。その男性は私に近寄り、まっすぐ私を見続け、その優しい目つきは表現のしようもないぐらいでした。少し間があったのですが、私ははっと我に戻り、その男性に神韻のチケットを勧めました。その男性は奥さんと相談して、一番よい席を購入しました。その男性は始終、優しい目つきでした。この後、私の身体は軽くなり、私を押さえつけていた物質が消え去りました。私の心は落ち着き、空の状態となり、今何も起きていなかったような心境でした。続いてチケットを購入する人が次から次へと現れ、チケットが飛ぶように売れました。

 師父に感謝いたします。このことを通して、善の強大な力を見させていただきました。師父は『2009年ワシントDC国際法会での説法』の中でおっしゃいました「ですから、慈悲が現れると、この上ない力があり、いかなる良くない要素も解体されてしまいます。慈悲深くあればあるほど、力が強くなります。以前、人類社会に正理がないため、人間は善をもって問題を解決することができなかったのです」 どのように同修とのトラブルを対処するかも分かりました。それは、常人のように争って闘う方式で問題を解決してはならず、慈悲の力を用いてトラブルを解決することです。しかも、真に他人のことを先に考えることです。

 いつも他人のことを先に考えるとよく言っていましたが、同修にも教えていました。しかし、私の利益に触れるようなことが発生したときは、旧宇宙の理である「私」の本性が作用し、良くない物質が湧き出し、このとき考えているのはすべて自分自身のことでした。

 内に向けて探したとしても、自分の立場に立って自分の問題を探しただけで、同修の立場、角度に立って同修のことを考えていませんでした。それは、内に向けて探す基点は自分の問題を探すことにあり、自分を修めなければならないところはありますが、同修にも問題があり、修めなければならないところがあると考えているからです。ですから、内に向けて探したとしても、不平不満をもって探し、争って闘う心をもって探し、時にはたくさん探しましたが、結局、問題は同修にあるという結論になってしまうのです。

 今回のトラブルを後にして、同修とトラブルが生じたとき、同修に対して不満があったときは、素早く自分の考えを調整し、善の一念で同修の立場に立って真っ先に同修のことを考えるようになり、同修は精一杯がんばっている、同修も辛い思いをしている、もしかすると同修はこのように考えておらず、私自身がこのように考えているのではないかなど、同修の良い面を考えるようにしました。こうすれば不平不満の心が消え、穏やかな心理状態になり、心が平静になって、真に自分の問題を探し出せるのです。これは、以前の私にできなかったことでした。もう一つ悟ったのは、骨を削る辛い思いの修煉過程を経なければ、「私」という物質を取り除くことができず、真に他人のことを考えることはできないのです。

 同時に、私は同修の執着に対して執着しなくなり、それぞれの同修はそれぞれの次元で修煉しており、自分がいるレベルの基準で同修に要求してはならないということも分かりました。師父は『マンハッタン説法』の中でおっしゃいました。「さらにそれぞれの道も違います。仕事が異なり、生活環境が異なり、それぞれの家庭が異なり、それぞれが置かれている社会階層と出会う出来事も異なっています。実は、これだけではなく、もしこの背後に含まれる内涵が非常に大きいのであれば、背負う責任も重大なものになります」 つまり、同修の執着に対する最も良い解決方法は、善意をもって指摘し、発正念をして同修を妨害する要素を解体させ、不足と隙に円融することです。

 (続く)

 2010年7月27日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/5/31/224633.html
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2010/6/12/117804.html

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