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崇拝する心を取り除き、口を修めること


文/黒竜江省の大法弟子

(明慧日本)先日明慧ネットで、地元の同修Aさんが労動教養所で「転向」されたニュースを見て驚きました。Aさんはかつて地元の指導員であり、彼女と連絡を取れることを誇りに思う学習者もいるほど大きな影響力を持った人物です。彼女はどうして邪悟になったのでしょうか。このニュースを同修に知らせるべきでしょうか。知らせると、同修の間に波紋が起きて、Aさんはプレッシャーを感じて、修煉に戻りにくくなるかもしれません。一方、知らせないと、もしAさんはこれから邪悟のままであれば、周囲の同修は危険にさらされてしまうのではないでしょうか。

 どうしたらいいか分からなくなった時、突然、自分は正念で問題を見ているか、それとも人心で問題を見ているか、と私は思いました。私はどうして迷っているのでしょうか。やはり、Aさんを普通の学習者と見ておらず、特別扱いをしていたのです。そうすると、私は彼女を崇拝する学習者と同じことをしているのではありませんか。師がおられ、大法があるのに、またどんな人に、どんな事に心を揺さぶられるのでしょうか。もし、皆に彼女を崇拝する心がなく、冷静に大法を師とするのであれば、旧勢力が彼女を使ってみんなを試すことも起きないかもしれません。

 師父は『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』で次のようにおっしゃいました。「以前、『煉功点のこの人の行いが本当に素晴らしいので、彼のように行いましょう』と言っている人がいました。皆さんに教えますが、くれぐれもこのようにしてもならず、考えてもいけません。修煉の人は誰それを手本にしてはならず、法を師とすべきです!(拍手) 皆さんが一旦このように行い、考えてしまう時、二つの問題が現れます。一つは、その学習者を死滅への道に追いやってしまい、旧勢力は彼に問題を生じさせ、ひいては死なせてしまい、これによってほかの学習者に試練を与えようとしています。『あなたたちは彼ばかり見ていて、こういう情況になったら、まだ大法を学ぶのか、修煉を続けるのか』と旧勢力が思うのです。こういうとき、『彼もだめになったら、私などは大丈夫でしょうか』と思って、すぐ動揺してしまいました。これでは、旧勢力に隙に乗じられてしまったのではありませんか? 師父である私さえ何も言うことはありません! 『見て御覧なさい、この試練の結果はどうでしょう。私たちは正しかったでしょう』と旧勢力は言うのです。ですから、正念が強くなければ、常人の心が動かされてしまいます。くれぐれも気をつけてください。法を師とすべきです。誰それの修煉を見て、その人を手本にしてしまい、法を勉強しないということをしてはいけません」 

 この事が起きたのは、もちろんAさん自身の原因があります。しかし、修煉には偶然なことがなく、もしすべての同修がこれによって自分の執着心を探して、いっそう修煉の厳粛さを理解し、これから進歩すれば、悪い事が良い事に変わるでしょう。

 もう1つ、よくあるのは口を修めない現象です。地元の同修Bさんは以前、協調人でした。数回の迫害を受けても、帰って来たら依然として協調の仕事と技術の仕事をしています。しかし、一部の同修はBさんの安全を気にかけずに、Bさんはどんな仕事をしたかを軽率に言い出していたため、Bさんはまた迫害に遭いました。私はBさんと何の付き合いもありませんが、他の同修からBさんの名前を聞いた時、その同修に口を修めるように注意しませんでした。内に向かって探すと、自分には好奇心があり、もっと多くのことを知りたいと思いましたが、それは私心です。

 その時、私はまた「Bさんのやった仕事は、すぐ他の同修に遠くまで知られている」と冗談を言いました。その時は、自分と関係がない他人事を言っているようだったのです。これは修煉者のあるべき態度でしょうか。たとえ知り合いでもなく付き合いもない同修の事を自分の事として大事に扱っていないのは、その同修との間に隔たりを作って、邪悪に乗じられる隙間を作ったと同じではないでしょうか。

 一部の学習者は、明慧ネットにある技術を学ばず、技術の分かる同修(以下、「技術の同修」と称する)に頼りすぎています。それは二極化の現象を起こしやすいのです。一つは、無意識に技術の同修を褒めて、だんだんと技術の同修も有頂天になり、自分の知恵は大法がくださったことを忘れて、技術自身にこだわって、学法と自分を修めることをおろそかにし、最後に迫害に遭った現象です。もう一つは、難題に遭ったら内に向かって自分の不足を探さず、陰で技術の同修の不満を言って、同修の間に隔たりを作って、一丸になることを妨げた現象です。

 技術の同修を褒める人も不満を言う人も、口を修めておらず、技術の同修に責任を持っておらず、その中に自分の私心も隠れていると思います。同修の問題が見つかったら、善意を持って本人に指摘して、共に法の上で交流をすることこそ、真に同修のために責任をとることだと思います。

 私自身も含めて、皆ができるだけ私心を放下して、相手のためにもっと考え、もっと冷静に理性的に「三つのこと」をしっかり成し遂げましょう。

 2010年8月27日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/6/24/225889.html

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