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誰を師にするのかは極めて厳粛な問題である

—崇拝しても崇拝されても法から離れ、邪悟に向かい始める


文/中国長春の大法弟子

(明慧日本)

 一、崇拝する同修、崇拝される同修は自分の心に向かって探すべき 

 現在、崇拝されやすい人は自分が衆生を救うことを話す時、自分がどのようにして、何をして、何人を救って、どんな苦労をしたかを話します。彼は、修煉が成熟する過程で師父がどれほど助けてくださったかを言及する人はあまりいません。師父は『精進要旨』「法は人の心を正す」の中で、次のようにおっしゃいました。「目下のところ、ラジオ、テレビ、新聞などの宣伝機関に宣伝されている良い人と良いことの多くは、わたしたちの大法学習者が大法を修煉したことにより、心性が向上したことでおこなったことである。しかし、報道の中ではこれらの人が何かの模範であるとか、何かの中核的人物とかいったものであると言い、それゆえおこなったのだとして、大法を修煉したことでおこなったのだということが完全に消されてしまった。その主な原因は弟子自身のせいでそうなったのである。修煉とは偉大にして殊勝なことだが、なぜ取材しにきた人に、それは大法を修煉したからおこなったことだと正々堂々と言えないのだろうか? もし、報道した人が大法を取り上げたくないのであれば、わたしたちも大法を盗み法を証明しないような、いかなるやり方をも体裁よく繕ってはならない。わたしたちはみな、善い人としてふるまっており、社会と人類にとって有益なのに、なにゆえ公正で合法的環境を有すべきではないのか? 大法は皆さんを圓容しているが、皆さんも大法を圓容しているということを弟子の皆さんは覚えておきなさい」

 二、他人は、本当に修煉が良くできている人がどのぐらい良くできているかを感じられない

 どんなに多くの事をしても、どんなに偉大な事をしても、彼らはいつも感動して、師父はどのように私に知恵を与えてくださり、どのように私を按配してくださり、どのようにご加護をしてくださったかを話します。「私は以前、まったく損をすることができない人でした。大法を学んでから、いろいろなことがあり、このすべては法の力です」と言います。話す人と聞く人はいずれも、師父の慈悲に感謝し、心の中は師父と大法に対して、大いなる敬慕の念と感謝で満たされているのです。

 三、崇拝し、崇拝されることをどのように免れるのか?

 私は修煉を始めたころ、質問がある時にいつも、私と大法を出会わせてくれた人に訪ねていました。毎回、学法をすれば解決できると教えてくれます。もし法の中ではっきり説明されたことならば、彼は第何講のどこを見るようにと教えてくれます。毎回、私に法の中で自分で道を悟ることを教えてくれます。知らず知らずのうちに、私は法の中で解答を探すことができ、そうすると完全に崇拝し、崇拝されることを免れます。私たちはみな法の中で向上し、法に対する信念と法の奥義と博大さを感じ、自分の修煉の成長に対して師父がどれほど助けてくださったのかを深く感じ、自分の少しずつの進步に師父が心血を注いでくださっていると感じます。大法を修煉してからもう12年になりますが、師父の要求に従ってできるように、『転法輪』を一講一講暗記して学法しています。

 四、法を師とする

 師父は『法輪大法義解』「再版の言葉」の中で、次のようにおっしゃいました。「大法弟子は法を師とし、妨害を排除し、着実に修めるよう望みます。これが精進なのです」

 現在悟ったことは以上で、すべて師父の啓発であり、私が法を暗記する時に、師父は私にこの層の法理を現してくださるのです。不足の部分があれば、慈悲なる指摘をお願いします。 

 2010年8月29日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/2/14/218048.html
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2010/2/24/114908.html

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