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法輪功を学ぶ子供、車にひかれても無傷


文/北京の大法弟子

(明慧日本)私の子供は今年9歳で、小さい頃から私たちと一緒に修煉してきました。まだ大人たちのように精進しているわけではなく、ゆっくりとしていますが、法と師父を固く信じています。去年の冬、子供に事件が起こり、書き留めて法の不思議さと素晴らしさを証明できればと思います。

 ある日の放課後、私は子供を迎えに学校に行きました。いつものように道路を渡ろうとしていたとき、ちょうど仲の良い保護者に会い、互いに挨拶し、まだ話も終わっていないとき、私は道路に背を向けていたのですが、突然その保護者が両手で口をふさぎ、目を大きく開いて私の子供の名前を呼んだのです。私は振り向いて見ると、道路に私の子供の姿はなく、ただ子供のランドセルが車が通る道路の真ん中に落ちていました。慌てて行って見ると、子供の小さな体がタクシーの前の車輪の下に横たわっていて、頭が車輪の前にあり、足が車輪の後ろに挟まれていて、動かなくなっていました。実は私が他の人と話しているとき、子供は私の手を振りほどき、自分で道路を渡ろうとしていましたが、車が向かって来ているのが見えず、タクシーにぶつかってしまったのです。

 この場面を見たとき、私も驚きました。私の子供はこのまま死んでしまうのではないかと思いました。しかしすぐに、私たちは法を正す時期の大法弟子であり、師父が必ず守ってくださると思い、あわてて子供に走り寄り、子供を起こしました。事故が起きたため、運転手と乗客も車を降りて、狭い道路に人が埋まっていました。他にたくさんの人も集まってきました。私の子は地面に腹ばいになって、気を失ったらしく、私の叫び声に反応を示しませんでした。集まってきた人々はあれこれ言い出し、私に子供を動かさないようにと言う人や、私たちを病院に送ると言う人もいました。

 しかし、私は師父を思い、良し悪しは自分の一念によって決まると考え、子供の名前を呼びながら起こしました。ゆっくりと子供は気が戻ってきて目を開けました。私は急いで、子供の耳元で「師父を思い出して、師父に助けを求めなさい」と囁きました。子供は私に支えてもらいながらゆっくりと道路の端に座り、やっと「わぁ」と泣き出しました。子供の体には何のケガもなく、メガネさえもちゃんとかけていて、ただ皮膚がこすれただけでした。全身が車輪の下に挟まれていたのですが、靴が破れ、紐が切れて、靴下も少し破れただけで、ケガはありませんでした。足を少しひねっただけで、他にはケガ一つありませんでした。周りの状況に気づいた私は、あわてて運転手さんに車を出してもらうように言いました。なぜなら、私たちのせいで、道路がふさがっていたからです。

 師父が修煉者を守ってくださったことを、私たちは再び目にしました。今回の出来事は、子供に修煉の厳粛さを気づかせてくれました。師父の恩に対して、私は恩返しするものがありません。ただ自分がもっと精進して衆生を救うしかありません。師父に合掌いたします。
 
2010年09月18日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/9/7/229281.html

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