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衆生の救い済度を阻む観念を解体する

(明慧日本)同修に注意していただきたいのは、真相を伝える中であるいは生活の中で他人に理解できないことがあったら、内に向けて、何か重い常人の観念を持っているのではないかと自分を探すべきで、その観念が自分の修煉を阻んでいる原因かもしれません。
 
 私は幼い頃から、母と周りの友だちに「馬鹿」と言われてきました。幼いうちはまだ何も気にしないのですが、だんだん大きくなるにつれ、言われる度に心が痛みを感じるようになりました。特に社会に出てから、人間関係と技術の面でさらに難しさを覚えました。たとえ自分がよく勉強ができて、学校で一番よい成績で仕事先に配分されたとしても、自分にはあまり大きな変化をもたらしませんでした。
 
 27歳の時、私は法輪大法に出会いました。大法を学んでから初めて人に馬鹿と言われるのを気にしなくなって、自分には心の拠り所として、「真・善・忍」があったからです。しかし、私は完全に大法の要求に従って行なっておらず、自分の観念に合うならやる、つまり自分の観念に従って法を学び、行なっていました。その結果、長年修煉してきて、いまだに私を馬鹿という常人もいるし、ある同修もばかばかしいと言っています。結局この状況はすでに真相を伝えるのに影響を及ぼしていて、話す前に、頭の中でまず考え始め、何を話したら人に馬鹿と思われるのか、常人に法輪功を学ぶ人がばかばかしい印象を残したら、かえって大法に泥を塗ってしまうと心配が先に走ってしまいます。特に、結婚式や葬式など、小さいころからの知り合いが多いので、まだ会っていないのに、相手が私を見たら心から笑われるかもしれないと考えてしまって、結局真相を伝えることができず、人が背後でささやく声が聞こえたら、いつも自分を嘲笑していると思ってしまいます。
 
 このため、私の疑心、他人が自分をどう思うのかという心がとても重くなりました。特に人が多いときは、さらに話せません。誰かが自分の前で馬鹿と言ったら、自分に言っていると思い、同修は表で何も言わないのですが、裏できっと言っていると考えてしまうのです。仕事を失ったことで、常人の中で自分は何も得ていないので、真相資料を作っていることで、修煉の中でやっと自分の役割を見つけたようで、自分を証明することができて、自分が馬鹿ではないと証明できたように感じていました。
 
 今日、学法グループから帰って来て、ついに悟りました。一人の神として、当初私が降りて来た時、私は私の世界の王、主であり、私は大覚者であるので、馬鹿であることはありえません。馬鹿という考えは人間のものではありませんか? 神は馬鹿ですか? 私の元神は馬鹿ではありません。私が修煉しているので、主元神が自分を支配するのではありませんか? この馬鹿という観念が40年にわたって私についてきて、それをなくすべき、それは他の空間でも物質的な存在で、霊体で、生きているのです。私が名を重く見ていることから、旧勢力が隙に乗じ、法を実証して真相を伝えることを妨害し、再び私の主意識を操ることを許してはなりません。これからは、発正念をしてそれをなくして、主意識でもそれを排除し、なくすようにします。
 
2010年10月30日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/10/24/231404.html

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