■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/11/10/mh112810.html 



他人を変えようとする心を修める

文/中国の大法弟子

(明慧日本)最近、私は自分の修煉に存在する大きな執着を見つけました。それは他人の不足を気にすることで、いつも他人を変えようとすることです。これらの執着は、常人の仕事の中、生活の中で現れており、同修との付き合いの中でも現れました。しかし、自分では意識せず、日常生活で深刻に現れても気づきませんでした。いつも自分は他人のために、他人の修煉を高めるために考えていると思っていました。これらの執着を放任したのでそれらが大きくなって、自分と同修の協力に影響を与えるようになり、自分が心を静めて三つのことを行う時、突然気づくことができて自分でも驚きました。私がそれらに気づき、探し当てるまでは容易いことではありませんでした。それは、その執着は幾重にもなる理由に包まれていたからです。
 
 今私は、修煉は自分を修めることですので、いつも他人を見て、外に向かって探すことは、法に背くことだと理解しています。本当の修煉は、自分を修めることに立脚しなければいけません。自分の次元の法の要求のもとで、善の心で他人に接し、他人に対しては寛容で、他人に協力していっしょに法を実証することこそ修煉がよくできる事だと思っています。
 
 しかし、過去の私はいつも誰が正しく、誰が間違っていると、同修と言い争っており、他人の不足を捉えては放しませんでした。いつも他人が意見を変えて自分の意見に合わせることを求めており、自分の意見を変えて他人に協力しようとしませんでした。もし、いつもこのような態度が続くなら、どんなに良い事をしても、良い結果は得られないと思っています。
 
 私は、今から他人の不足を見るのではなく、他人の長所を多く見て、法理に従って他人の不足を評価し、善意をもって理解し、黙々と円融し、相手を非難して改めようとしない、自分の意見を出して切磋琢磨し、自己認識に執着せず、他人を否定することもしません。 
 
2010年11月10日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/11/7/231986p.html

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