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マイナスの教訓を汲み取らないことについて


文/中国の大法弟子

(明慧日本)明慧ネットをよく見ているうちに、時にはマイナスの教訓を汲み取る問題が存在しているので、これについて皆さんと交流したいと思います。
 
 明慧ネットで、他の同修の修煉がよくできたり、素晴らしい行いをしたり、あるいは経済的に恵まれているとか、所在環境がいいなどの記事を読む時、私は少し違和感を覚えます。なぜこのようなことが起きるのかと思っていました。絶えず学法し、明慧ネットを見ることを通して、突然ある日、それは嫉妬心であると分かり、取り除くようにしました。それから再び文章を読むと、そのような感じがなくなり、代わりに人を祝福する気持ちと安心した気持ちになりました。
 
 また、ある地域では法を正す形勢がとても良く、連行された同修がいたら、みんなで力を合わせて、間もなく人を救い出します。このようなことを知ると羨ましく、しかし少しがっかりもしました。なぜ自分が苦難に遭ったとき助けてくれる人がいないのでしょうか? 自分一人で苦難に耐えるしかないと思っていました。何度もこのように考えて、ある日、突然思いつきました。なぜ自分はいつも他人に期待しているのでしょうか? これも迫害を認めているのではないでしょうか? 私は自分をよく修め、それから人の助けになることをやるべきことだと分かりました。考えを改めてから、さらに積極的にほかの同修を救うようになりました。
 
 同修が「三退」を勧めている時、一人の警察が「三退」をすると嘘を言ったことに騙され、結局その警察に通報された記事を読んだ時、私はびっくりして危ないと思い、自分はこういうことに遭わないようにと思いました。私もよく公共の場所で「三退」を勧めています。でも、よく考えたら、この考えは間違っていることが分かりました。師父は人を救い済度することは誰にも妨害できないとおっしゃったことがあります。心構えの問題で、心構えに何らかの問題があるのかもしれません。きっと、三退させた人数に執着しているとか、自分の次元が落ちて遅れないために「三退」をやっているとか、あるいは他の何らかの考えがあったはずで、人を救い済度する心は純粋でなければなりません。私はマイナスの教訓を汲み取ってはならない、恐れてやらなくなるのではなく、逆にさらに自分の心を清らかにし、一心で人を救い済度すべきと思いました。
 
 また、しばらくの間、明慧ネットを見れば見るほど恐れてしまいました。残酷な拷問と迫害事実の文章を多く見たからです。それで、もっと多く学法することを通して、その恐れる心を改めました。修煉者だから常人のようにただ単に迫害を受けることはないので、中に修煉と向上の要素がたくさん含まれています。この面について私も体験したことがあります。一度警察に連行され、私は殴ったり蹴ったりされ、頭を壁にぶつけられました。しかし、少しも痛くありませんでした。また、労働教養所の規則を暗記しないため、軍人のように立たされ続けました。私は何度も何度も師父の詩を繰り返し暗記しているうちに、入静のような状態に入りました。私を見張っていた囚人は、よく立ち続けられるなと思っていました。実は、師父が加持してくださっていたからです。私たちはどんな問題に遭っても、表面の表れに惑わされてはならず、正念を持つべきです。それからは、迫害事実の文章を見るたび、心の中で同修を加持するようにしました。
 
2010年11月13日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/11/5/231985.html

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