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学法に集中できず形式的に陥りやすい原因を探す


文/中国の大法弟子

(明慧日本) 昨日「学法に集中できず形式的に陥りやすい」問題について交流した時、同修たちはたくさん話し、私にくれた啓発と感動はとても大きいものでした。最近、私の状態はずっと良くありませんでした。学法に集中できず、形式的に陥りやすい問題以外に、いつも常人の事が入ってきて集団学法に参加できませんでした。学法に集中できず、形式的に陥りやすい原因を探す時、私は次のいくつかの認識を同修たちと切磋琢磨しました。
 
 一つは理性的に、本当の大法のこの上なく厳粛で、神聖で偉大なところを悟りませんでした。師父はかつて私達にこの無辺の宇宙の大法の一部を教えてくださり、私達が理解し、悟り、認識できるのはほんの少しです。
 
 では、なぜ学法に集中できず形式的に陥りやすい問題が現れるのでしょうか? それは自分の法に対する認識が依然として感性的で、人の考えで法を認識し、大法がよいと考え、体がよくなり、私の思想を変え、家庭を改善しました。自分の過去と比べて、常人と比べてとても幸運だと思います。しかし、理性的に考えると、大法は一体何でしょうか? どうしてこの時期に伝わっているのでしょうか? 大法と宇宙の過去、現在と将来はどんな関係があるのでしょうか? 大法と宇宙のすべての生命および自分はどんな関係があるのでしょうか? 自分はどうして大法の修煉を始めたのでしょうか? 修煉は何を意味するのでしょうか? どうして師父は私達を「正法時期の大法弟子」と呼ばれ、大法と「法がこの世を正す時期の大法弟子」とその修煉形式は何の関係があるのでしょうか? などなど。これらに対して、自分の認識がはっきりしていないことを見つけました。
 
 それで私は悟りました。感性による認識は、実はただ物事に対する表面的な認識にとどまり、物事の本質を認識できません。理性的な認識こそ物事の本質を見ることができ、それこそ本当の向上と昇華です。もし、私達の法に対する認識が理性的認識へ昇華できず、表面の感性的認識にとどまれば、永遠に大法の、この上なく厳粛で神聖で偉大なところを悟ることができず、法をより大切にすることができず、普通の修煉形式のように大法に対し、学法の時に集中できず形式的に陥りやすい状態が早かれ遅かれ現れるのです。
 
 二つ目は、本当に師父と法を尊敬していないことです。さきほど、大法のこの上なく厳粛で神聖で偉大であることに言及しました。法について、師父は私達に一字一字がすべて師父の法身の姿形で、背後にはたくさんの佛、道、神が重なり、私達が口で読み上げたのはすべて法輪あるいは蓮花だとおっしゃいました。しかし、私達は学法する時にこれらを考えたことがあるでしょうか? もし、私達がこれらを考えたならば、師父がいつも私達の身の回りで私達を見ていると考えたならば、私達が学法する時にお茶を飲んだり、足を組んだり、雑談したり、座ったり立ったりなど師と法を尊敬しない現象が現れるでしょうか? その時、また学法に集中できず形式的に陥りやすい問題が現れるでしょうか? きっと現れません。
 
 慈悲で偉大な師父と大法が私達を地獄からすくい上げ、私達に法を得る機縁を与えてくださり、私達に法を実証し、衆生を救い済度する偉大な歴史的使命をくださいました。もし、師父と大法の慈悲深い済度がなければ、私達の今日があるでしょうか! 私達のすべてを尽くしても師父と大法の浩大なる佛恩に応えることができません。しかし、私達は師父と法を尊敬することをやり遂げることができませんでした! このような心理状態と行為で学法に集中できますか? 形式的に陥るのではないですか? 私達に法の本当の内包を見ることができますか?
 
 三つ目は、本当に大法修煉の厳粛性を認識していないことです。修煉を始めた時、どんな抵抗と圧力もなく、差別と迫害もありませんでした。聞いたり、見たり、感じたのはすべて大法の神聖さとすばらしさで、心の中は修煉して円満釀腴することに対する美しいあこがれで満たされていました。師父は法の中で、すでに何度も私達におっしゃいました。「修煉は子供のたわむれ事ではなく、常人のいかなることよりも厳粛で、思うようにはならないものです。いったん機会を失ってしまえば、六道で輪廻して、いつ再び人身を得るのですか!」(『精進要旨』「退職した後に修煉する」) しかし、自分でその厳粛性を見ることができず、とても軽く考えました。
 
 迫害が始まってから、生と死に直面する試練に直面してはじめて、大法がただの厳粛かどうかという問題ではないことを体験できました。まるで以前『西遊記』を見たのと同じで、いつもそれを後代の人が書いた神話の物語だと思っていましたが、今やっとそれが本当の修煉の物語だと知ったのです。自分で毎回深い教訓を経験するにつれて、これはすべて自分の学法がしっかりできていないからだと認識しています。大法修煉の基礎的な理解がないため、これらの厳しい教訓が現れました。
 
 師父は「オーストラリア法会へ」の中で「法が基礎であり、大法弟子の根本であり、すべての保障であり、人から神に向かう道であるため、私はオーストラリア法会のこの機会を借りて、全世界のすべての大法弟子に教えます。つまり、古い学習者であれ、新しい学習者であれ、忙しいからといって、法の勉強を決しておろそかにしてはいけません。法の勉強は形式的なものになってはならず、精神を集中して勉強し、本当に自分が勉強するようにしなければなりません」とおっしゃいました。「人心を取り除く」の中で、師父はまた私達におっしゃいました。「多くの学習者がひどい迫害に遭っていますが、実はこれは彼らの人心が重く、正念が足りないことによってもたらされたことです。これはよく見られることです。これを解決するために、法の勉強を重視し、真面目に法を勉強するしかありません」
 
 明慧の小冊子『集中して学法する』を読んで、自分の修煉の道を振り返ると、私は学法に集中できず形式的に陥り、集団学法を続けることができませんでした。この問題は際立っていました。もし、これから重視しなければ、決心してこれらの問題を解決しなければ、今後の道を正しくしっかりと歩んで行くことは難しいと認識しました。
 
 身の回りにも多かれ少なかれ、これらの問題が存在する同修がいたので、書き出して皆と共に切磋琢磨して正そうと思いました。適当でないところは同修の慈悲なるご叱正をお願いします。
 
2010年11月19日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/11/14/%E6%9F%A5%E6%89%BE%E5%AD%A6%E6%B3%95%E4%B8%8D%E5%85%A5%E5%BF%83%E8%B5%B0%E5%BD%A2%E5%BC%8F%E7%9A%84%E5%8E%9F%E5%9B%A0-232403.html

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