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大法に同化し 執着を取り除く(一)


文/日本の大法弟子

(明慧日本)尊敬なる師父、こんにちは! 同修の皆様、こんにちは!
 
  私は新しい学習者です。修煉は古い学習者にまだ遠く及ばず、皆さんと交流するほどの良い体験も持っていませんが、自分が法から受けた恩恵と修煉過程での心性の向上を皆さんにお話ししたいと思います。不適切なところがあれば慈悲を以って指摘してください。
 
  一、 常人から修煉者へ
 
  1、認識を高めて心を正す
 
  常人の中で自分はとても良い人だと思っていました。なぜなら、小さい時からずっと、親や先生、クラスメートたちに褒められていたからです。しかし法を得てから全然そうではないことが分かりました。なぜなら、強大な思想業力や悪い考え、汚い念が頭の中に満ちていたからです。常人社会では沢山の業力を作りました。そのため、自分は法を破壊しに来た魔で、最後に滅されるのではないかとさえ思いました。しかし慈悲なる師父は私を放棄されませんでした。私は縁があって法を得ることができたのです。新たに本当に良い人間になるチャンスを得ました。この法を得ることはどんなに幸運なことなのでしょうか。
 
  常人から修煉者になる、という観念の転化は、私にとって修煉に向かう非常に難しい一歩でした。師父は、修煉者が過去に犯した罪にこだわらないとおっしゃいましたが、私は過去の過ちをずっと後悔し続けていました。この執着は私の修煉を阻んで障害となりました。学法と同修との交流を通じ、法に対する認識が高まれば、次元も高まると悟りました。師父は『転法輪』の中で、「人間の悟性とは、修煉過程において出現するあらゆる次元または師の言った特定のもの、特定の法に対するあなたの理解の程度を指しています」とおっしゃいました。この執着が修煉の道の障害となっていることが分かってから、これらの障害をひとつひとつ取り除き始めました。過去のことを、もう考えず、生まれ変わって良い人に、さらに良い人になろうと決心しました。それからは、自転車に乗ったら本当に誰かがうしろから押しているような軽さでした。仕事の帰り道では軽やかに歩き、夢の中では空を飛んでいました。
 
  大学の学費を払うため、私は、長期休暇の間、同時に二つのバイトをやりました。仕事はラップを使って素早く食品を包装することです。ひとつ包装を終えるたびにラップが熱をもち、そのたびに強い刺激臭を放ちます。この4時間の仕事で私はどのくらい毒の入った空気を吸ったかわかりません。そのあとで学校に行きますが、机に伏せて死んだように1、2時間寝てから回復していました。しかし、もし私が修煉者でなければ、それだけでは済まなかったでしょう。
 
  ある日、私がまた机に伏せて寝ていると、自分の元神が漂い浮かび上がって体から離脱して天国に行こうとしているのを感じました。しかし心が突然ドキドキしてきて目が覚めました。私は苦からの解脱を感じたと同時に、私がまだたくさんの執着心を取り除いていないことを師父が教えてくださっていると悟りました。天国世界へ帰るには全ての執着心を取り除かなければなりません。
 
  しかし、それから自分にたくさんの執着心が表れてきました。仕事をしたくない、学校へ行きたくない、新聞を配りたくない、ただ家に座って気持ち良くなりたい・・・私は突然どこかがおかしいと思いました。以前はこうではなかったのに、どうしてこんなに変わったのでしょうか。日々の仕事は苦しく、疲れて学法の時間が持てなかったからです。その時の私は師父に文句を言い始めたばかりでなく、大法に反発する気持ちも出てきました。また他の方面からの矛盾も同時に増えてきて、大法のことをするときはゆううつな顔をしていました。人は本当に弱いものだと悟りました。もし自分の主意識が強くなければ容易に妨害され、左右されます。修煉者としては、それらを追求する良くないものを放下するべきであり、大法に対してゆるぎない信念をもつべきです。
 
  自分の考えが大法から外れた時、たくさんのトラブルが相次ぎ、なかなか解決できないと分かりました。しかし私が認識を正し、大法をもって自分の考えを正した時に、それらのいわゆるトラブルは全て消えてしまいました。それは自分がずっと執着し放下できなかった常人の心でした。修煉者にとって、それらのものはあるべきでなく、必要としないものだからです。私はこうして少しずつ自分の執着心を放下していきました。その中で私は、常人が感じ取ることができない修煉の素晴らしさを実感しました。
 
  2、勇猛邁進 3回の消業
 
  2008年7月、私は再度大法を修煉し始め、精進しようと決心しました。その時は『転法輪』を5回しか通読していませんでしたので、時間を大事にして『転法輪』を通読しました。仕事の合間の休憩時間も学法しました。仕事帰りの電車の中でも学法しました。鞄の中に常に大法の本を入れて、いつでもどこでも学法ができるように、本を離しませんでした。家ではパソコンを開き大法に関するサイトをたくさん見ました。それから煉功する時、大法の不思議さを感じました。2番目の功法を煉っていると、頭で法輪が回っているのを感じ、同時に左半分の頭の中からひと固まりの思想業力が、師父の法身に取り除かれたことをはっきり感じました。
 
  私は、大法の要求にしたがって自分を厳しく律しました。工場で仕事をするときは積極的に年配の人を手伝い、一番疲れる仕事をやった時でも疲れを感じませんでした。他の人は数日間やっただけで文句を言いましたが、私は自分の利益が損なわれた時も文句をいいませんでした。あるとき、深夜の仕事を終えたあと、工場から駅までの送迎バスがわたしを見逃して行ってしまいました。私は口で「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし・・・」を暗唱しながら、駅まで走って行きました。私が修煉者であったから、常人が耐えられない苦痛を耐えることができたのです。師父は『精進要旨一』「境界」の中で、「善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもて楽とするのです」とおっしゃいました。
 
  師父が私のためにしてくださった2回目の消業も工場で起こりました。工場の機械は普段調子が良かったのですが、改装してから、たえず故障が起こりました。機械が故障を起こすと、ベルトコンベアを流れるカップヌードルがあちこち地面におちて、十数人があわてて拾い集め、とても困っていました。ある人が文句を言い始めましたが、私はこのトラブルがなぜ起こるのかわかっていたので、黙って協力して仕事をしました。どんなに差し迫っていても、私の気持ちは落ち着いて、焦らず慌てず仕事をしました。ちょうどそのときに、私は頭の中からもうひと塊の思想業力が師父の法身に取り除かれたことを感じました。もし以前の私なら、機械を改装した人を絶えず罵っていたでしょう。
 
  3回目の身体浄化は家で起こりました。私が第5式の功法を煉るときは、最初から結跏趺坐して両足がどんなに痛くても、途中でやめたことはなかったのです。いかに痛くても歯を食いしばり、乗り越えてきました。一番痛かった時は、頭の中で「師父、私はもう駄目です」と叫びましたが、最後までやり遂げました。その時、私の結印している両手は腕まで帯電して、痺れるような感覚が長時間続きました。初めてこのようなことが起こり、驚きと喜びで、功が出てきたと思いました。人に病気治療をしませんと言い、しばらくしてその状態が消えました。私の両手はかつてとても大きな業力を作ったので、師父は私の両手を浄化してくださったと悟りました。修煉して以来、自分を厳しく要求し、良い人間になるために他人を嫉妬せず、修煉者の基準に達するように努力しました。大法は私に高尚な精神と行動の基準を与えて、知らず知らずのうちに、私は健康な体をもつことができました。しかし私が得たのはそれだけではないと分かっています。「失わないものは得られず、得るためには失わなければならない」この道理だと思いました。
 
 (続く)
 
2011年01月02日

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