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どのように同修の手助けをすればいいのか

(明慧日本)以前、私は同修の欠点を見つけると叱責していました。しかし、叱責すればするほど同修を傷つけてしまうことに気づきました。その後は、叱責するのではなく指摘するようにしたのですが、後になって指摘の裏に「私(し)」が見え隠れてしていたことに気づきました。心理状態が純正でなく、同修に対する一種の強制と変えさせようという心が存在していました。私はこのことを認識したとき、直ちに法の中で自分を正に帰し、そして、お互いに交流しながら同修の手助けをしました。こうすれば確かに以前のように、同修を刺激することはなくなったのですが、最近になって「私が彼を手助けしている」という考えに気づき、その考えは純正ではないと思いました。
 
 私たちがそれぞれ正法修煉の中で遭遇した問題は、心性を高め返本帰真するためだけではありません。自分たちが対応する宇宙を正に帰することに関わり、宇宙の正法と関連性のある大きな問題なのです。ですから、善を持って同修と接しなければならず、「私」に執着してはいけないのです。同修の受け入れ能力を考え、大法に円融しなければなりません。
 
 さらに、自分の修煉より劣る同修に問題があると見つけたとき、その同修を変えようとして、真に相手のこと考えることができなければ、その同修を手助けしてはなりません。このような心理状態で同修に手助けをすれば、間違いなく不満を持って相手を叱責し、または間違った法理で相手を説得しようとすることになります。実は、修煉の仕方が分からない同修、難の中にいる同修は辛い思いをしていると思います。このときの同修が最も必要としているのは、他の同修からの忍耐のあるサポートなのです。大法の慈悲と同修の暖かさを感じさせ、信頼を持てるようにすることが必要です。それによって、その同修は法に対する堅い信念を持つことができるのです。ですから、善をもって謙虚に同修に接することが大切なのです。包容は大法の慈悲なる現れです。自分の修煉がよくできていると思っているのであれば、同修を軽蔑していることになり、それは法を実証しているのではなく、自分自身を実証しているのです。
 
 同修を手助けする際、注意すべき点は多々あります。根本から同修を手助けとなると、やはり一緒になって心を落ち着かせて学法するほかありません。そして、心を開いて交流し、その同修に教えるべきことは、物事に対して論じるのではなく、物事の表面的なことに動かされてはなりません。うわついた心を静め、冷静になって内に向けて探し、自己を修煉する方法を覚えてこそ、問題の本質を見抜くことができるのです。同修に手助けするということは黙々と行うべきで、誰かの非を探すことではないのです。同修に自分の非を認めさせた時の、あなたの心の奥深くを探してみてください。自己を実証できたから興奮していたはずです。
 
 私たちは、今日まで歩んできた道を振り返って見ますと、同修はそれぞれ法に基づいて修煉してきました。誰かに監視され、誰かに叱責されて修煉してきたのではないのです。監視や叱責は同修を傷つけ、同修との隔たりを作るだけなのです。裏で物事の是非を論じないで、私たちは同門の弟子であることを心に刻みます。師父が私たちの面倒を見てくださっています。自分一人で何ができるでしょうか? 同修の良いところを見習い、自分自身が修煉できてこそ、お互いに切磋琢磨し、共に向上することができるのです。
 
 私の一個人のわずかな見解ですが、極端なところがあると思います。不適切なところがあれば正してください。今後、よりよく修煉の道を正しく歩めるように、三つのことをしっかりと行えるように、さらによりよく多くの衆生を救えるようにしたいと思います。
 
2011年01月09日

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