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忙しくする中で自分を修煉することを軽視しない(二)


文/中国吉林省の大法弟子

(明慧日本)
 
 「固守」は自己を実証する現れで、他人のために考えていない私心
 
 ある日会社で、私の人心に触れる出来事が4件発生し、その時、心の中はとても嫌な感じがしました。仕事が終わり、今の人間はどうのこうのと考えはじめたのですが、それは修煉者の状態ではないと気づき、内に向けて探すことにしました。今日の出来事は、私の計画を乱して、仕事の順序に影響したと思ったのは、「私心」の現れだと思いました。
 
 人はそれぞれやりたいことがあり、私たちは他人のことを考えなければならず、慈悲を持って他人に接し、自然に任せて利益に対する執着心を放下しなければなりません。旧い観念と人心を持って、大法に同化することができなかったために、旧い観念を固守するようになり、新しい宇宙に行くことができません。私が固守している観念に触れられたのは、即ち私自身が触れられたことになり、これは巨大な人心を取り除くいい機会ではありませんか? 今日の出来事は、私が執着している観念を根本から取り除くために発生したのです。ですから、修煉の中の一つひとつトラブルを軽視してはなりません。
 
 修煉する中で軽視してはならない多くの人心がある
 
 総じて言えば、内に向けて探すことを軽視し、自分自身を修煉することを軽視していました。今日の正法修煉の中で出会ったあらゆることに、正念が不足しているとき、生活や仕事が忙しいときは、往々にして自分を探すのではなく、他人を探すのです。彼はよく行っていない、彼のやり方がおかしい、彼にたくさん手助けしたのに、彼はまだ付いて来ていない、時間を浪費したなどと相手を責め、不満を訴え、愚痴をこぼすのです。
 
 これらは自己修煉を軽視した現れであり、これらの状況に出会ったとき、今の私はまず自分の内に向けて探すようにしました。彼の不足は自分の不足ではないでしょうか。もっと奥深くに、自分の忍耐する心や慈悲心を探してみたとき、彼に手助けしたときは心を込めていましたか? 法は異なる次元の修煉者に対して、異なる要求があり、彼の受け入れ能力を考えたでしょうか? 同修が私の面前で苦を訴えているとき、それは自分に手助けを求めているかもしれません。彼のことを自分のこととして考えたでしょうか? 自分の心理状態や考えは法に符合していましたか? このように内に向けて探せば、往々にして自分の取り除くべき執着心を見つけることができるのです。仕事や生活の中で何事も自分の心を修めることにあり、自己を修煉するためにあります。
 
 学法することは法に同化することであり、日常生活の中で法に同化した一面を表し、それが法を正すことになります。表面において常人と同じように生活していますが、私たちは常人が見えない修煉の道を歩んでいるのです。トラブルに出会ったときは、誰が間違って誰が正しいかではなく、それは表面的なことであり、実質的に自分の心がどう動いたかにあり、そのときの心理状態や念が法に符合しているかどうかが肝要なのです。自分が見たこと、聞いたこと、知っていることのすべてを自分の修煉に用いていれば、自分自身の修煉を軽視することがなくなり、真の修煉となるのです。
 
 この問題についてすでに交流したことがあり、私が自分の修煉体験を書き出したのは、同修と共に勉強したいからです。私の次元は限られており、不適切なところがあれば、ご指摘してください。
 
 (完了)
 
2011年02月01日

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