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計9年と15日間受けた迫害(二)

(明慧日本)
 
 三、無実の罪で7年間拘禁される
 
 私は2004年10月22日、永川刑務所第四監獄区第二支監獄区に護送されました。この監獄に服役している受刑者たちは、口々に2004年7月に夏、劉、徐らに迫害されて死亡した謝照明さん(江津出身)という法輪功修煉者がいたと話していました。
 
 第二支監獄区の劉顕剛は、法輪功修煉者への迫害計画を立てている主犯です。徐光旭は、私に対する迫害のリーダーでした。他に受刑者・劉東(麻薬常習犯、傷害罪で懲役4年の判決)と、羅江(傷害罪で懲役4年6カ月の判決)が加担しました。劉と羅は徐光旭に指示され、毎晩零時あるいは翌朝2時にならないと私を寝かせませんでした。昼は刑務所の規定を読ませ、法輪功を誹謗中傷する内容のビデオを見せました。受刑者・劉と羅は「幹部(刑務所の警官)は俺らに指示したぞ。どんな手口を使っても必ずお前を『転向』させる」と言いました。
 
 彼らの転向手段は三段階で行われ、初めは強制的に中共の書籍を読ませます。次に「洗脳」を強制します。最後には暴力を振るいます。警察の執務室には、法輪功修煉者を転向させた模範奨励状が飾られていました。受刑者・羅江は「お前がここに来るまでに多くの法輪功修煉者を転向させた。私は自分の刑期を減刑させるために警官の指示に従い、何でもやってやる」と脅迫しました。
 
 2004年11月13日、受刑者・羅江は、私に中共の邪説を読ませようとしましたが、私は拒否しました。すると、羅は私の頭と顔を強く殴りました。羅は「お前を10日以内に必ず転向させる。もっとひどい手段を使ってやる」と叫びました。迫害はますますひどくなり、大小便まで禁止されました。日常的に暴力を振るわれ、睡眠時間を制限され、心身ともに苦しめられました。ある日、トイレ内で頭を殴られて大きな傷口ができ、血があふれ出て止まりませんでした。このことは全監獄所を驚かせましたが、こんなにひどく迫害されても、刑務所側は羅江と劉東を処分しませんでした。警官・徐光旭がこの事件後、別の監獄支区に移転させられただけです。第四監獄区長・彭川江は、私を永川医院に搬送し、脳の検査を受けさせた後、すべての責任を私に被せました。私が自分で頭をぶつけたと言い、逆に私に刑罰を与え勧告処分を出しました。私は彼らの陰謀をすべて否定しました。
 
 2005年1月4日、第四監獄区管理教育部門長・汪成国と警官・畢光貴は、机を叩き椅子を蹴りながら「お前は必ず転向しろ。さなければすぐ一級の厳重な管理科に入れて厳しく対処するぞ」と威嚇しました。汪は私に「お前は◯◯を知っているだろう。彼すら転向させたぞ」と言いました。私は、「彼は彼で、私は私です」と反論しました。その後、私は迫害されて全身の力が抜け、自力で立てなくなり、体も痩せこけて骨と皮だけになってしまいました。彼らは暴力と騙しの両手段を用い、精神的、肉体的、生理的に限界を超えるまで私を虐待しました。その後、徐の代わりに警官・張傑が来ました。張は毎日、私にいわゆる反省書を書かせました。張は、法輪功を中傷する内容の邪説を強制的に話して聞かせました。
 
 2005年5月、第四監獄区担当の数人の警官らは全員転職しました。警官や受刑者ら24時間、私を監視して誰とも接触させず、孤立させて誰とも会わせませんでした。
 
 2006年後半、私は奴隷のように扱われ、毎日十数時間も過酷な労働をさせられました。法輪功修煉者・唐丙光さん(懲役3年)、莫永兵さん(懲役3年)、王静飛さん(懲役7年)も同様な被害に遭いました。
 
 2008年、第四監獄区の名称が永川監獄第十四監獄区に突然変わり、楊軍が監獄区長に就任しました。谷兵と張は副区長に、馬勇、黄頴と王中文は行政監理担当に就任しました。
 
 2008年末〜2009年3月まで、法輪功修煉者・彭積時さん、劉亜林さん、費明彦さん、譚興紅さん、及び唐継華さんなどが迫害を受けました。
 
 4月23日、受刑者・張建軍(強盗罪)、維忠(婦女暴行罪)、熊官強らは警官に指示されて、唐継華さんに転向書にサインするように迫り、唐さんにひどい暴力を振るいました。唐さんは耐えられなくなり大声で「暴行されている、助けて!」と叫びました。しかし、暴行をした囚人には何の罪も問わず、逆に被害者の唐さんがさらなる刑罰に遭いました。唐さんは手を後ろに巻いて押さえられ、警察の執務室まで連れて行かれました。警官・王中文は非常に怒って、唐さんを殴ったり罵ったりしました。高電圧のスタンガンで首や、頭、脇などを攻撃された唐さんの体は、傷だらけになりました。声を出すことも許されませんでした。区長の楊軍は「我々はお前の意志をなくすためにやっているのだ」と暴言を吐きました。
 
 5月3日、費明彦さんと唐継華さんは第十監獄区に連行された。劉亜林さんはずっと監獄医院で迫害されていました。私と残りの修煉者は、永川監獄で引き続き迫害されました。
 
 2009年8月、永川監獄区第十四区が移転し、重慶渝西監獄と改名し、元永川女子監獄所に変わりました。名前の変更目的は法輪功を迫害した罪を隠蔽するためです。重慶市の南西地区にいる罪のないすべての法輪功修煉者を永川監獄に集め、永川監獄第127区に集中させました。ある受刑者が「張全良さんは東山監獄区で迫害され、開県出身の法輪功修煉者・厳新培さん(70歳過ぎ)は3年の罪を着せられて、頭に大きな傷跡ができ、血が流れるほどぼろぼろになるまで迫害された」と話しました。受刑者らは「隣で見ていた。警官もこの様子を見てびっくりしていた」と私に話しました。
 
 2009年5月13日、私は5階の個室に監禁されました。各階に2人の法輪功修煉者が監禁されていました。唐安洪が私への迫害のリーダーでした。彼らは法輪功修煉者を4つの組に分けてそれぞれ迫害計画、目標を明確にして役割分担をしました。例えば副区長・唐安洪の下に区の管教・劉顕剛がいて、この劉は上述のように以前も私を迫害していましたが、ここでも彼に迫害を受けました。
 
 2009年6月、家族が面会に来ましたが、娘だけが面会を許されました。私は劉顕剛に「なぜ家族の面会を禁止するのか」と聞くと、彼は非常に乱暴な態度で「俺になぜと聞くな。身分証明書がない者は面会させない。誰でも同じだ」と叫びました。
 
 四、絶え間なく続く嫌がらせ
 
 2010年5月4日は、私の釈放日でした。中共の地獄で丸7年間虐待されましたが、その間、1分1秒も休まず私は迫害されました。午前9時の釈放予定が、午前12時になっても釈放されませんでした。私の体は極度に衰弱し、杖をついて歩いて警察の執務室に向かいました。彼ら(江津市「610弁公室」、行峯出張所のメンバー)は娘と私の間に亀裂を入れるような話をして、娘が親を憎むような卑劣な言動をしていました。私は直ちに話を中断させ、彼らの陰謀を皆の前で暴きました。彼らは、公安出張所に行ってから帰宅するように命じましたが、私は拒否しました。
 
 610弁公室の警官は、私の自宅に侵入して数回、妻を脅しましたが、妻は彼らの卑劣な言動を毅然と拒否しました。2010年6月、610弁公室の黄燕と先峯出張所のメンバーが数回来て嫌がらせをしました。9月2日、先峯安全弁公室の人員・胡衛平と呉(女性)、公安出張所の顧先華、鐘態選が自宅に来て騒ぎ立てました。10月10日、自宅に侵入した先峯鎮書記の楊書記らに、またもや嫌がらせをされました。 
 
2011年02月17日

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