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大法の基準に合わない観念は取り除くべき

(明慧日本)大法弟子は毎回、発正念の前の5分間で、自分の中の良くない思考や観念を取り除いています。しかし私は、自分の頭の中に現れる良くない観念に対して、はっきりとした認識や理解ができていませんでした。結果として、その5分間はただの形式となり、実質的な作用を果たしていませんでした。そのため私は、自分の中に良くない観念が存在していることに長い間気づくことができませんでした。
 
 私は、師父の説法を通じて法に対する理解が深まり、だんだんと大法のことを大切に思うようになりました。大法は副元神が修煉する他の功法とは異なり、主意識が功を得て、主元神が修煉し、はっきりとした意識の中で向上していきます。そのため、修煉で得た成果は永遠に自分自身の身についてきます。これはかつての修煉とは根本的に異なります。しかし、このような状態に達するためには、前提条件として大法の要求を満たさなければなりません。つまり、常人社会の中で生活し、世間を離れずに修煉しなければなりません。我々は、人と人との間のトラブルの中で心性を向上させ、自分の心性基準を高めます。このように行うことで、主元神が功を得るのです。
 
 私は大法の中で長年修煉してきて、たくさんの法理を理解してきました。大法はすばらしく、貴重なものですが、一方で私はあまり大法の要求を満たすことができていないことに気づきました。私は、従来の修煉方法に対するイメージを完全に捨てることができず、修煉と言えば清らかで無為を重んじ、世間と縁を切って山や寺に篭り、佛を拝む事であるという観念がありました。この固定観念のため、私は世間の中に清らかさを求め、常人との接触を嫌がるようになり、修煉していない家族と一緒に過ごす事もしたくなくなり、世俗のことに煩わされずに修煉したいと思うようになりました。さらに、修煉者は独身であるべきだと考えていました。私は、大法の修煉方法こそが本当の修煉で、大法の要求通りに修煉すれば、真に自分を浄化し、世間の中でしっかりと向上することができ、善で全てが解決でき、衆生に責任を追うことができるということを忘れていました。また、このような固定観念に囚われることは、正法時期の大法弟子が旧勢力の迫害を受ける原因となるという点も見落としていました。
 
 昔は、修煉と言えば副元神を済度するということだったので、師父が当時法を伝えられた時、多くの神は師父に寺へ行くよう勧めました。それらの神にとって、主元神はあまりに済度し難く、呂洞賓は動物を済度しても人を済度しないと言っているほどです。寺で修煉するということは、副元神が修煉するということで、それは旧宇宙の智慧の限界であり、旧宇宙の神の限界でもあります。旧勢力はこのような考えのもとで、大法弟子を迫害していると私は理解しています。旧勢力は人の求める心を利用して、多くの邪説を作り、このような邪説を広めることで大法弟子に主意識を放棄させ、過去の宗教の修煉形式の枠の中に引きずりこもうとしています。このような旧勢力の行いは、大法の中で本当に修煉することを甚だしく妨害しています。
 
 私は、この良くない観念の根を探し当てた後、はっきりとこれを取り除きました。また他の、大法の基準を満たさない観念を自分が認識できているかどうか、取り除けているかどうかを内に向けて探すべきだと思いました。出所のはっきりとしない考えは、旧勢力に彼らが存在する口実を与えていると私は思います。そのため、取り除くべき観念を認識することは、法を正し、邪悪を取り除くことにもなります。今後、私は全てを大法で計り、法を正す立場に立って物事を考えます。新しい宇宙は大法によって切り開かれているため、私たちは新しい宇宙の基準に合わない一切の観念を取り除くべきです。
 
2011年03月14日

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