日本明慧
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修煉を投資と見なさないように

(明慧日本)私は物心がついてから、人は何のために生きているのかと常に自分に問いかけてきました。すべての努力、必死の努力は何のためなのか、たとえ素晴らしい人生を送ることができたとしても、死んでしまえば何も残りません。人生のさまざまな追求、艱難辛苦(大変な苦難)も結局のところは無に帰すのではないでしょうか? 私は人生に対して強い虚無感を覚え、時に悲しみの淵に立ち、無気力感に苛まれました。私は現実の人生において投資をして努力することに対して、すでに完全に失望していました。なぜなら、人生でどんなに大きな投資をしても、大きな苦、最大の苦しみの果てに何かを得ても、最終的にはすべてを失ってしまうからです。
 
 ある時、私は偶然にも法輪大法を修煉し始めました。しかし、修煉を始めたときの驚きは、次第に修煉を通して良いものが得られるという執着へと変わっていき、常人社会の現実的な名、利、情に対してまだ淡泊にみることができないうちに、新たに修煉を通して良いものが得られるという執着が加わりました。これは旧宇宙の生命が持っている私(し)の観念であり、また、自分の中のまだ修められてない執着心が原因です。私は、修煉を形を変えた投資、ぼろ儲けができる投資と見なしていました。
 
 私は「常人が行っている投資は、数十年の人生の中での利益の追求にすぎませんが、修煉に投資すれば生命の本源が永遠の利益を得ることができます」と考えました。これはなんと大きく貪欲で、大きな漏れでしょうか。この巨大な執着心は、法を正す修煉の中のさまざまな場面で現れました。
 
 ある日、私は旅行に行かずに、集団学法に参加しました。この時、私は現実的な利益と修煉を秤にかけ「遊びに行っても何も良いことはないが、集団学法に参加すれば私の次元を向上させることができる」と自分に言い聞かせました。私は「1人の人を三退させたら、私は1人を救うことになり、私は師に手伝って法を正しています。師父は必ず私にたくさんのものを与えてくださるでしょう。同修が必要とする書籍を印刷してあげたので、私は同修を助けました。師父は必ず見てくださっています。これで功徳を積みました。自分が書いた文章が明慧ネットで発表されたので、私は他の同修を励ましました。私は自分の修煉の中の教訓を書き、他の同修は私の書いた文章に啓発されて困難から抜け出し、法を正すことに良い影響をもたらしたので、彼らの功徳には私の分があるでしょう」という考えで修煉をとらえていました。
 
 このようなことは、あまりにもたくさんありました。私は何をするにしても、すべて自分の利益を得ることを心の根本においていました。生活や仕事などさまざまな方面で、この問題が現れていましたが、私はそれをとても深いところに覆い隠していました。
 
 このような強烈な執着心と貪る心、さらに、まだ修められてない色欲の心、嫉妬心、人を恨む心があったため、私は旧勢力に迫害されてしまいました。私は2008年に強制連行されて、労働教養を強いられました。私は労働教養所で、修煉者を転向させる仕事をしていた人に「あなたの貪る心は私よりも大きい。円満成就して永遠の幸せを求めているなんて」と言われました。私は表面上、修煉していましたが、実は内心で大法を利用していました。修煉は自分の執着を修め取り除くことであり、自分の貪る心を修めるのですが、私は修煉の中で大法の仕事をすることを通して、自分の執着を拡大し、自分の貪る心を満足させようとしていました。
 
 師父は「みなさんにひとつの真理をお教えしましょう、修煉の過程は絶えず執着心を取り除く過程であります」(『転法輪』)と説かれました。
 
 この文章を書いたのは、私と同じ執着、同じ考えを持っている同修に、修煉は厳粛なことであり、着実に修煉しなければならないと、認識してもらうためです。
 
2011年04月19日

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