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面子を重んじる心を無くそう


文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は面子を重んじる心がとりわけ強いのです。私は長い間、それを修める努力をせず、これが悪い心ではないと思い、いつもこの心を容認してきました。最近、私はこのことが原因で失敗を経験しました。ここでは具体的な事例を述べることはせず、単に自分の面子を重んじる心について述べたいと思います。
 
  面子を重んじる心は、私(し)の表れとして、何かをする時にいつも情を重んじ、自分が失敗をしたとき人から指摘されたくなく、人に悪印象をもたれないようにといつも考えています。ひいては、親族との付き合いにおいても、私はこの心を持って、自分の面子の為に彼らに奉仕しています。それは完全に他人の為を考えた行為とは言えません。他の人との付き合いにおいても、私はまず自分の面子を先に考えます。また、いつも自分の話し方や自分の仕草に気を配り、人に対して礼儀正しくしています。これは、実際は人に傷つけられたくないからです。普段の身なりに必要以上に気を配り、他人との関係で自分の立ち位置を考えることは、人に軽蔑されたくないからです。
 
 面子を重んじる心は名を馳せようとする心であり、情から派生したものです。情は私(し)のものであり、とくに面子にこだわるときによく現れます。面子を考慮した時点で、その思考は利己的であり、他人のことを思いやっていないのです。つまり、人に褒められたいのであって、真に人の為に何かを行うのではありません。これは宇宙の「真・善・忍」と背反しており、良くない心です。あまり例えとして適当ではないのですが、中共(中国共産党)の「面子工程」(編集者:中共がいつも表面上の見栄え、自己の評価につながることばかり行うこと)に似ています。個人的な考えですが、中国大陸で生活したことがある人が、強く面子を重んじるのは、党文化から形成された悪癖です。また一部は、中国人の内向的な性格も作用しています。中国以外に住んでいる人の性格は、ある程度率直です。
 
 面子を重んじる心は、修煉者を重大に妨害し、表面上に見栄を重視し、皆によい人と認められ、和気あいあいとする中で同修との関係を丸く収めたいのです。これによって私は、ずっとこの問題の重大さを理解していませんでした。今考えてみると、修煉者にこの心があるということは、厳しく言えば人を騙しています。考えて見てください。自分が真実で、透明な表現をすれば、常人や同修が話の中で勘違いすることはないのです。
 
 面子を重んじる心は同時に自分をも騙しています。この心のために自分の不足を認識することができず、人間のずる賢いやり方で人心を覆い隠し、自分と他人を騙しています。そして、この心は、内に向かって探すことをも妨害しています。
 
 なぜ面子を重んじるのでしょうか。なぜこの虚栄心を重んじるのでしょうか。実は自己を実証し、他人に自分を重視して欲しいと思う心があるからです。人に軽蔑されたくなく、人と衝突したくない心があるため、直接的に自分を立派だと表現せず、ずる賢い方法を通じて表面上の平穏を維持し、人に悪い印象を与えたくないのです。結果的にトラブルを回避して、執着心に触れようとせず、ゆっくり修煉したいのです。
 
 正法修煉の中で、このような心を抱えていれば、三つのことを行うことに支障をきたし、顕示心、歓喜心、虚栄心、大法の仕事ばかりをしたがる心、人に認められたい心、人に言われたくない心、自分だけを実証したい心などが生じやすくなります。
 
 上記は自分の面子を重んじる事についての体得です。今後しっかりとこの心を無くしていきたいと思っています。
 
2011年05月12日


(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/5/11/125068.html
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