日本明慧
■印刷版   

精進について語る


文/一言

(明慧日本)交流の中で、非常に「精進」している同修の動向について、いつも耳にします。どういうことかと言うと、このような同修は「精進」しているのに、なぜ問題が起きたのか、ということです。ここではほかの同修が修煉の中でトラブルに遭ったとき、私たちがどう対処すれば正念を持って対処したことになるか、を論ずるのではなく、ただ「精進」という言葉について語ろうと思います。私は、この言葉はもっと慎重に使うべきもので、軽率に使ってしまえば、この言葉を尊敬していないことになると思うのです。この言葉自体が、私たちの修煉に対する法の要求とヒントになります。すなわち、精進しているかどうかは、すべてのことにおいて、すべてのトラブルの中で、直面したすべての困難に対して、毎回の心性の試練や何かの仕事をする中で、自分を修めているかどうか、もし当時よくできなかったら、事後それを認識し、よく行ったか否かを意味するのです。
 
 多くの同修は目に見える表面形式から、つまり大法の仕事を努力し、規模が大きくて勢いのある仕事をし、忙しい状態であることなどを「精進」していると定義しています。しかし実際に「精進」しているか否かは、必ず三つのことを積極的に行ったかどうかに現れます。本当に「精進」したかどうか、仕事の効率がどうかなどは、ほとんどの場合、表面形式からは見出すことはできません。例を挙げると、多くの同修は一部の表面の現象から「精進」しているかを判断しており、毎日何時間寝ているか、学法は何時間行ったか、大法の仕事は何時間やったのか、大法のプロジェクトにいくつ参加しているか? などを重要視し、睡眠時間が少ないと「精進」していて、「精進」していれば必ず睡眠時間が少なくなるのだと言っています。学法を毎日5時間、8時間行ったら、それは即ち「精進」であり「精進」している学習者は、必ず毎日学法の時間が少なくない等々です。
 
 また多くの同修は、観念によって作られた計算式を基準とし、それを修煉範疇のものとしています。実際、精進している同修は確かに、睡眠時間がわりに少ないかもしれません。しかし精進しているかどうかは、上にあげた例に見られるような観念だけで計算できるのものではなく、それらはただの表面的な現れであり、例えば、もしかすると一部の人はそれほど長く寝る必要がなく、また一部の人はあまりにも忙しくてそれ程長く寝る時間がなく、また一部は安逸を求めないため寝る時間が少ないかもしれず、また一部は状況に応じて適宜に物事に対処して睡眠時間をうまく調節しているかもしれない等々、ただ睡眠時間が少ないと言っても、その理由、原因を一言で決め付けられないのです。しかし根本として、やはり大法は人を救うことを第一位とし、人を救うことを急ぎ、すべてはもっと多くの人を救い、更に人を救う効果を高めることを中心に行われるのです。同時に、このような学習者は必ず自分の心性の修煉を重要視しなければなりません。そうしなければ、毎日の睡眠時間を減らした場合に、人を救う良い効果が上がらず、肉体も長く保てなくなります。
 
 一部の同修は、一時期忙しくすごした後、意気消沈し、それから長い間正しい状態に戻ることができません。忙しいときは精進している学習者と同じ現れなのですが、忙しさのなかで着実に修めることができず、ただ仕事をすることに流されてしまうのです。常人の熱情、執着、能力は、修煉者の責任と使命感のようにそれほど博大で、長く保たれるものではないのです。
 
 時間的に見ると、毎日同じ8時間の大法の仕事をしていても、一部の人は真面目さが足りず、機械的に一定の作業量を完成させ、ひいては心の中で「私は誰それを助けてやっている、それは素晴らしいことであり、褒め称えてもらうべきだ」と考え、そのため8時間の作業効率がとても低く、後々に悪影響を残し、全体の効果に対しても責任を取ることができなくなるのです。しかし、また一部の人は3時間で、他の人が8時間で完成する作業量をこなし、出来栄えもよく、彼の仕事が全体の中で引き起こす、更に大きな作用についての認識も冷静で、全面的なものであるかもしれません。大法の仕事は機械的に行うのではなく、本当に心をこめて責任を持って行わなければなりません。
 
 一部の同修はとても忙しいのですが、それはその人が無私の心を持っていて、大法の仕事をしっかり行うことは容易ではないと認識しているから、やればやるほどどこに力を入れるべきかが分かり、やればやるほど、やるべき仕事が見え、自分が承諾したことは必ずしっかり行い、いかなる困難にぶつかっても、なるべく自分が多く担い、修煉を通して、心性を向上させ、心を広くし、決して中途半端に終らせず、自分の初心を変えず、また自分がメインで担当していない他のプロジェクトであっても、必要であれば助け、善意をもって協力し、相補うのです。
 
 しかし、一部の人はとても忙しいのですが、それは恐らく自分の人間としての観念、すなわち好き嫌いや、得と失などの考えから出発して、大法の仕事をやっているのかもしれません。このような人は、往々にして半日経っても、実際は熊がトウモロコシを採る(※編集者注:同時に多くの事をしようとすれば、結局どちらも成功しないという意味) のと同じように、最後に自分が何を収穫したのか、師父の全体の按排の中で、どんな作用を働いたのか、自分の誓約を実現したのかなど、すべてわからなくなるのです。
 
 もちろん、これはただの浅はかな例です。なぜなら、とても深い問題を簡単に言ってしまうと偏り易いからです。もし、はっきり説明することができれば、それはなによりの幸せです。「精進」という二文字に戻ると、修煉して以来、私は「精進」とは何か、必ず師父の定めた基準を持って量ることこそ、法を持って量ることになり、人心と感情と観念で量ることにならないのです。しかも、ひとりの修煉者が「精進」しているか否かは、一言で判断できるものではありません。なぜなら、私たちが現在議論しているのは、すべて最後のまとめではなく、修煉過程での現れだからです。
 
 ですから私は個人的に思うのですが、精進しているか否かは、すべてのことにおいて、トラブルや困難を前にして、毎回の心性の試練の中で、あるいは話をしたり、何かを行ったりするなかで、観念を基準とせず、毎回法を持って自分を量り、内に向かって探し、すべてを大法の要求通り行ったかどうか、もし当時よく行うことができなかったら、事後に師父の要求を思い出し、執着を放下し、それから、引き続き自分の観念と執着に従うのではなく法の要求通りによく行ったかどうかを見るべきだと思います。
 
 私たち大法弟子の学法は理論を学び、知識を学び、「分かった」からそれで終わりにするのではなく、法を学んだら法に同化し、自ら実践し、「做(な)すところ到(いた)るは是(こ)れ修(しゅう)なり」(『洪吟』「実修」)です。そうでなければ、理論と実践が外れてしまうという常人によく見られる現象が発生するのです。実際古人であっても、良い人や君子の場合、よく「知ったら、之を行い」、善を知りながら行わないと「狂う」と言い、悪であると知りながら、改めなければ「惑い」とみなすのです。
 
 老子は「上士、道を聞けば、勤めて之を行う」と説きました。5千年の文化はすでに大法修煉のために、文化の基礎を築きました。そうであれば、大法弟子の修煉は当然これらを基本として実践すべきではないでしょうか? 一部の常人は博学で、経験が豊富ですが、自分の知っている道徳基準に従って、実践することができません。それは常人です。大法弟子には「正念を持っているが、正しい行いができない」という問題は存在しません。正しい行いができないのは、正念がないからで、正念を発するときのように警戒心を高め、強大な正念で自分を主導すべきです。正念と正しい行いは一体関係です。なぜなら、「物質と精神は同一のものです」(『転法輪』)から。
 
 もちろん、修煉者はまだ修煉過程の中の人であり、人間としての生活に慣れてしまい、肉眼で世界を見ることに慣れてしまうと、学法が足りないときや学法が心に入らないとき、自分が修煉者であることを忘れてしまい、自分を人間とみなしやすくなります。自分を人間とみなすと、人間は当たり前に間違いを起こし易く、人心を持ち、発見できない観念を持ち、また外在的な各種の誘惑と良くない影響を受けて、一時期は精進したものの、また一時期は精進しない現象が起きるのです。師父は私たちに「初心を忘れずに修煉していけば」とヒントを与えてくださいました。しかし、多くの人は「精進」の二文字を思い出すと、慌てて仕事をし始めるのです。このような同修は、師父の要求に従うのではなく、自分の計画で仕事を進めるので、仕事を行う中で師父の法理に対してますます深く理解することができず、おのずと内に向かって探しません。それは「精進」しているとは言えないのです。なぜなら、修煉の要素をおろそかにすると、仕事の効果も必ずおろそかなものになってしまうからです。
 
 更に深い一層では、師父を信じ、大法を信じるという問題が存在します。多くの同修は「自分は当然師父を信じ、大法を信じている」、と思うため、この方面での修煉をおろそかにし、多くのことにおいて、師父の必要とするものこそ、法を正すにことに必要なものであり、天に通じる大道であり、近道であると信じなくなるのです。かえって、自分の観念と人間世界で学んだ知識と方法を重視し、これらを師父の法より信じているのです。
 
 師父は1995年『転法輪法解』、「北京『轉法輪』発売記念イベントでの説法」の中で、とっくに私たちに「と言うのも人の心を修めることは様々な方面で体現してくるのですが、特に私たち法輪大法のどこかの煉功点で、このような人が出現します、つまり自分が佛なのだから、李洪志に従って学ぶことはないなどと言うのです。なぜこのような現象があり得るのでしょうか? すなわちあなたが根本から動揺せずにいられるか? をみて修煉が最後の一歩に至るまで、あなたのその心を試し、あなたが根本から法を認識しているか否か、定着しているか否かという問題です。様々な方面で向上し、全て確かめています」と説かれました。
 
 もし私たちが自分たちにとって、師父を信じ、法を信じる試練は根本的に存在しないと思ってしまえば、そのこと自体がとても危険な認識です。なぜなら、すでに知らないうちに(無意識に)、師父の説かれたこの方面の法を否定しているからです。この方面での法の指導がないと修めることはとても難しく、人間の聡明さ、知識、経験、習慣、観念、方法をもって、修煉者の思想と言動のなかにあるべき「法をもって師とする」ことを代替してしまい、ひいては直接師父の要求に抵触し、知らないうちに師父の法を正すことを妨害してしまうのです。これは大法弟子にとって、最も発生してはならないことです。なぜなら、たとえ、私たちの能力が限られ、師父の手助けをすることができないとしても、人為的に師父によけいなトラブルを増やしたい大法弟子はいないでしょう。そういう道理ではありませんか?
 
 私たちすべての法を正す時期の大法弟子がともに、真に精進できることを願っています。
 
2011年05月25日

■関連文章
師父を信じ、法を信じ、心性を修める
すべては「求めること」が招いた災い
内に向けて探すにあたってのいくつかの間違いとアドバイス(二)
しっかり学法することについて
着実に修め、法を正す道をしっかり歩む(三)
しっかりと学法し、自らを修める
本当に主意識に法を得させる
大法の基準に合わない観念は取り除くべき
「迫害を否定する」ことに対する認識
観念を変え協調をしっかり行う(二)