日本明慧
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内に向けて探し、協調する中で昇華する(一)


文/豪州の大法弟子

(明慧日本)尊敬する師父こんにちは!皆さんこんにちは!
 
 私は中国からオーストラリアに来て2年経ちました。私は海外の修煉環境が非常に難しいと深く感じています。精進せず、確実に修煉していない同修は、中国国内と同様に邪悪から妨害され、衆生を救えません。私たち大法弟子が世間に来た目的は、衆生を救い済度するためであり、個人の修煉のためではありません。しかし私たちの修煉状態は、衆生を救い済度することに直接影響してしまいます。そのため、中国国内と海外の大法弟子とを問わず、個人の修煉において厳しく要求しなければなりません。修煉ができていなければ、大きな損失をもたらしてしまいます。
 
 海外で修煉している場合、表面上は環境が緩やかなようで、この空間からは邪悪の迫害がないように見えます。しかし海外では、内に向けて探すことと全体の協調についての要求は高く、厳しいのです。海外では、あなたが修煉者であれば、どれだけの執着心が存在したとしても、全体の活動に参加して三つのことを行うことができます。しかしこのような同修は、内に向けて探さず自分の修煉がよくできていないため、全体の協調を破壊して、正法を妨害してしまいます。しかもこのとき、あなたは自分に問題があると思わず、他人の問題だと思い込んでしまいます。そして自分は精進しており、正法の仕事を沢山行っているという錯覚に陥ってしまいます。ですから、海外の大法弟子は内に向けて探すこと、内に向けて修めることを重視しなければなりません。他人の良いところを見つめ、自我を放下して全体に円融しなければなりません。
 
 去年、私はあるプロジェクトに参加しました。しかしそのプロジェクトを進行するにあたり、同修間に矛盾が生じ、結果としてそのプロジェクトは解散する羽目になってしまいました。その当時、皆が自分の言ったことが道理にかなっていると思っていました。私もそのことをずっと覚えていて、プロジェクトが解散したのは、あの同修の責任だと思い続け、自分は正しかったのだと思い続けました。甚だしきに至っては、常人の不平不満の心が生じていました。私は他の同修に「私は今になってシドニーの修煉環境が身にしみて分かりました、だから師父はわざわざ豪州の弟子に説法したのですね」と愚痴をこぼしていました。知らず知らずの内に、自分を全体の外に置いてしまいました。すべての問題や責任が他人にあると見せつけ、自分は他人の上に立っているかのような態度でした。今、振り返って見ますと、当時のこのような私の考え方はとても危険だったのです。しかし慈悲なる師父は、私が自ら悟るのを待ってくださいました。
 
 時に、冷静になって自分の修煉を考えたとき、とても苦痛でした。自分には問題があると微かに感じていましたが、心を静めることができず、問題の所在を見つけ出すことができませんでした。そのため、考えれば考えるほど、他人に問題があると思ってしまいました。どのような角度から話しても、私の方に理があり、私は大法を守るために心配しており、個人の得失を求めていないのだから、他人は私を認めるべきだと考え、求めていました。この心は私が内に向けて探すことを阻んでいました。私は過去に矛盾が生じたことのある同修と交流しようと試みました。私は事前に「必ず心を落ち着かせて、慈悲の心でその同修と交流しなければならない」と考えました。しかし少し言葉を交わしただけで、双方の意見が合わず、話を先に勧めることができませんでした。
 
 (続く)
 
2011年06月09日

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