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秘めている執着を掘り出す

(明慧日本)長年の修煉を経て、私はこのところ、「真、善、忍」で一つ一つの念を量ることができました。そうして、蔓をたどって瓜を探り取るように、自分も意識できていなかった、内に秘めた執着を見つけました。ここで私は、自分の修煉体験を同修と分かち合いたいと思います。ともに励ましあいましょう。
 
 私はいわゆる「強制」に敏感な人です。大法の仕事をやるには、協調人に無条件で従うべきですが、私は自分の仕事の範囲外だと思うと、協調人が強制した方式に従わず、ずっと不平の心を持ったままでした。
 
 私が参加している、法を実証するプロジェクトの協調人は、定期的に交流会議に参加するよう要求しています。ある日協調人は、「会議で各々の最近の修煉体験を交流するので、全員に発表してもらう」と言いました。私はそれを聞いて気分が悪くなりました。修煉は仕事ではあるまいし、修煉の中に強制はありません。師父もそのように要求されたことがありません。私は、「どのように学法し、どのように交流するかは完全に自分次第で、誰も強制することはできません」と思いました。これは完全に党文化から生じた考えです。私は怒りを感じ、どうしたら今回の会議に参加しなくてもいいのかを考えていました。
 
 しかし次第に、私は自分の怒りが真、善、忍の要求に合っておらず、正しくない状態であると気付き、内に向けて探すべきだと思いました。韓信は股をくぐる屈辱を受けても、恨んだりしませんでした。それに比べると私が出会ったことは小さすぎます。私の心は狭すぎました。私は忍を修めるべきだと思いました。確かによい修煉環境があることは、私たちにとって重要で、よい修煉環境を作るには、みんなの体験を交流することが欠かせません。ですから協調人の出発点はよいことで、私は人前でしゃべることが苦手ですが、積極的に努力して克服すべきだと思いました。しかし私は、「修煉は仕事ではなく、強制されてはならない」という自分の観念を放棄できず、自分が強制的だと感じるたびに、心のバランスが崩れてしまいました。
 
  私はある日の朝早く、師父の『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法』を学びました。師父は「会議で議論するとき、いつも異論を唱え、意見が万全ではないとか、すべての状況を考慮していないとかを理由に、仕事を台無しにしてしまった人に問題があります」(『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法』)とおっしゃいました。私は突然、自分がその異論を唱えた人であると分かりました。私は小さな事にこだわって、大きな事の進展を阻んでいました。よい修煉環境を作ることは大きいことで、私は協調人が命令の方式を取ったという理由で協調しようとせず、大きな事の進展を阻んでいました。
 
 私は正念が何かを悟りました。私が消極的に、どうしたら会議に参加しなくてもいいのかを考えているとき、私は正念で物事に対処していませんでした。自分の考えは責任逃れであり、全体のためではなく、自分の観念でした。これは全体の角度から問題を見ていないということで、言い換えれば正念がないということです。
 
 自分の執着を見つけると、私の心は動揺しなくなり、バランスがとれて平穏になりました。それからは、他の同修の体験を真剣に聞くようになりました。以前の私は、不平の心を抱いて、心を静かに人の話を聞くことができず、他の同修との交流は自分の役に立たないと思い込んでいました。しかし私が心を静かにすると、他の同修の小さな体験から、自分との差を感じることができ、一方で自分の体験も意外と他の同修の役に立っていることが分かりました。私たちが正念で対応するとき「いかなることも順調に進められます」(『更なる精進を』) 
 
2011年06月13日

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