欲望なければ弱みなし
—最近地元の同修が洗脳班に連行されたことについての感想
文/中国の大法弟子
(明慧日本)以前私は、『李衛が役人になる』というドラマを見たことがあります。あらすじはこうです。県知事が李衛に殺された後、康煕皇帝は李衛を引見して、彼に「あなたに県知事として貧しい県を管理してもらうとすれば、あなたはうまく管理できますか?」と聞きました。李衛は「はい、出来ます」と答えました。康煕皇帝は「50万両の銀をあなたに渡せば、あなたはそれをすべて庶民のために使うことを保証出来ますか?」と質問しました。「できます」と李衛が答えました。「あなたは何を根拠に自分が出来ると思っているのですか?」と康煕皇帝は聞きました。李衛は、「私は役人になりたいとは全く思っていないからです」と答えました。
李衛の一言は一つの理を教えてくれました。つまり、欲望がないからこそ欲に左右されず、任せられたことを立派に完成できます。欲望がないということは、実は私心がないということです。私心がないからこそ李衛は政府がくれた銀を自分の昇進のために使わず、必ず全部を庶民のために使うことができます。それ故、自分が県知事の仕事を任せられたら、庶民のための県知事になれると李衛は思っていました。
また『美女の亡霊』の中に次のような話がありました。ある幽霊は、寧采臣の体に取り付きたくて、寧采臣にいろいろ聞きました。
幽霊「あなたはどんな願望がありますか? 私はあなたを満足させます」
寧採臣「私は何の願望もありません」
幽霊「あなたは金持ちになりたくないですか?」
寧採臣「なりたくないです」
幽霊「あなたは有名になりたくないですか?」
寧採臣「なりたくないです」
幽霊「あなたは美人が好きではないですか?」
寧採臣「好きではないです」
寧採臣には何の欲望もありませんので、幽霊は彼にどうする事もできませんでした。
実際そのとおりだと思います。純粋な陽の環境の中に陰性のものは侵入できないのです。一つの地区の環境の良し悪しはその地区のすべての大法弟子の修煉状態の反映です。最近、地元の数人の同修が洗脳班に連行されました。正法はもう最後の最後になったこの時期に、このような事件がまだ連続して発生していることを、私たちは深く反省すべきではないかと思います。
大法弟子を強制連行して、衆生を救い済度することを妨害する旧勢力にはもちろん罪がありますが、しかし問題なのは、もし私たちがすべて法の基準に基づいて行動すれば、旧勢力は私たちを迫害できるでしょうか? 師父が「これは人心が招いた鬼だと、皆さんは本当に分かっていないのですか?」(『すぐに目覚めよ』)と教えてくださったのではありませんか?
今になってもこんなことがまだ起きているのは主に二つの原因があると思います。
一つは、大法弟子が法を実証する中で、協調協力の面において内に向けて探さないことです。
師父は内に向けて探すことは修煉の宝物ですと、教えてくださいましたが、私たちは魔難に遭遇したとき、往々にして外に向けて探してしまうのです。いかなる執着心も物質的な存在です。内に向けて探して、その執着心を取り除かない限り、その物質を取り除くことが出来ません。そのため、陰性のものに居場所を提供してしまい、旧勢力もその執着心を口実に大法弟子を迫害します。
何千年、何百年の輪廻の中で、ある観念が、もうすでに自分の各層の体、自分の血液の中に溶けてしまい、甚だしきに至っては自分の一部分になってしまっています。内に向けて探すことは胸をえぐり、骨身にこたえるように辛いもので、自分の体に溶けた物質を切り取ることに等しいのです。心臓から肉を切り取ることは勿論痛いことですが、無条件で内に向けて探してその執着心を取り除いてこそ、心性を高めることができ、その黒い物質を取り除くことができるのです。
執着心があるからその物質があるのです。例えば恐怖心です。恐れる物質を取り除かなければ、いくら自分に怖がらないように強制してもそれは無理です。内に向けて探して心性を高めれば、その物質が取り除かれ、自然に怖くなくなります。修煉の中でのすべての執着心はみな同じです。
羅漢の思想境界に達した人は、罵られても、殴られても全く心が動じません。常人から見れば、その人は本当に我慢強い人のように見えますが、実際彼はその境界の生命です。
内に向けて探さないために、旧勢力がそれを口実に次々と大法弟子を迫害し、衆生を救い済度することを厳重に妨害しています。
二つ目の原因は、迫害を全面的に、徹底的に否定できていないからです。
衆生を救い済度することを旧勢力は反対できないのです。にもかかわらず、旧勢力が大法弟子を迫害できたのは、私たちに迫害を認める正しくない観念があり、邪悪にその物質存在の場を提供してしまったからです。
ある同修は法を実証することをすると、すぐ迫害を連想してしまうのです。しかし、衆生を救い済度することは迫害とはいかなる因果関係もありません。ある同修は口で迫害を否定すると言い、発正念でも迫害を否定していますが、迫害がやはり起きてしまいました。このような同修は、余りにも迫害を気にしすぎて、迫害を否定すると言いますが、実は潜在意識の中では迫害を認めているのです。
本当の意味で迫害を否定するということは、根本から迫害について考えないことだと、私は理解しています。世間のすべての仮相に惑わされずに、法を実証し衆生を救い済度することであれば、何も恐れずにやればいいのです。「それらの神が何をやっているのかが見えても、彼らが何を言ったのかが聞こえても、信じてはならず、大法と師父の要求に従って行なってください。全てのことは正しく行なわれなければなりません。それは比類のない重大で偉大なことです! 誰それの見えたことを指針としてはいけません」(『北米での巡回説法』)
師父はまた私たちに次のように説法してくださいました。「以前既に話しましたが、実は常人社会で起きた全ては今日においても、皆大法弟子の心によって促成されたのです。旧勢力が存在していますが、皆さんにその心がなければ、旧勢力も為す術はありません。正念が十分であれば、旧勢力もどうしようもありません」(『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」)
正法はすでに最後の最後の段階に進展してきており、邪悪が大量に消滅され、大法弟子も成熟になりましたので、環境はますますよくなるべきです。環境がよくないことに対して、どうして迫害はまだ起きているのですか? と、私たちは時々まだ外に向けて探したりします。実は自分たちに聞けば分かります。「環境は人心によるもので、環境が良くないのは、皆さんがそうさせたのです」(『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』)
私たちは過去の教訓を汲み取って成熟すべきです。法理を理解して、協調協力する際に互いに内に向けて探せば、旧勢力は同修を強制連行出来ますか? 万事を大法の基準に照らしながら内に向けて探し、根本から迫害を否定し、自分の正念が強ければ、邪悪は侵入できず、迫害も起きません。
法を正し、衆生を救い済度することは宇宙の中で最も大きなことですので、正の神は協力すべきで、邪悪は道を譲るべきです。実際、迫害は元々起こるべきではなかったのです。
現段階の修煉体得ですが、不足なところは同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
2011年06月14日
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