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『師が法を正すことを手伝う』を学んだ後の感想

師父の新経文である『師が法を正すことを手伝うとは何か』を繰り返し勉強してから、自分の修煉の状態を振り返ってみると、冷や汗をかきました。私は最近、周りの同修とトラブルを起こしていました。トラブルに直面したとき誰が正しく、誰が正しくないのかは重要ではありません。最も重要なことは、私がこのトラブルに直面したとき、自分の強烈な人心と、自分を守ろうとする心がさらけ出され、内心から生じた念が非常に悪かった、ということです。少し前、ある同修は、私の行いの多くが法に基づいていないと指摘しました。私はそれ以来、この同修とは二度と会わないと誓いました。そして今生だけではなく、来世でも会いたくないと思いました。私は円満成就した後も、永遠にこの同修とは二度と会わないと誓いを立てました。私がその同修と会うかどうか、それはその同修にとって何の意味もありません。ただ、この同修を受け入れることができないという、この常人の心はあまりにも恐ろしいものでした。

同修は、私の情がこれほど強く、憎しみの感情も強いのを見て、ある物語を話してくれました。それは、中国古代の帝王・舜の物語です。舜は、生みの母が早くに亡くなったため、継母に育てられました。継母は自分の子どもをかわいがり、何度も舜を殺そうとしました。しかし、舜はそのたびに危険から抜け出すことが出来ました。しかし、舜は彼らに対して変わらず孝を尽くしました。

この物語を聞いた私は、とても恥ずかしく思いました。徳のある帝王ですらここまで出来るのに、長年大法を修煉してきた私には、これほど強い人心があり、言動もこれほど悪いのです。私たちの偉大なる師父は、法を伝え衆生をすくい再度するため、中共邪党から誹謗中傷を受け、さらに中共のスパイからの妨害を受けました。また、時には大法弟子も、人心によって師父に不平を漏らしました。しかしそれらは全て、師父の心を動じさせることはありませんでした。師父はまさに、衆生のためにやってきたのです。

自分の内に向けて探して見れば、私はずっと、自分が良い人だと判断した相手とは、何事も協調しようとしますが、自分が良くないと思う人には決して近づこうともしませんでした。さらに、私は人の悪いところばかりを見ていました。つまり私は、自分の基準で人の善し悪しを量ろうとしており、決して「真・善・忍は良い人か悪い人かを判断する唯一の基準」(『転法輪』)という法理に基づいて判断したのではありませんでした。このような人心はまさに、自分自身を守ろうとする心から生じているものです。

「もし修煉者が表面では放下しているだけで、内心ではまだ何かを守り固守していて、自分の最も本質的な利益が傷つかれないようにしていれば、皆さんに教えますが、これは偽りの修煉です! 自分の心が動じなければ、少しも向上することができず、これは自らを騙しているのです。」(『北米第一回法会での説法』)という師父の説法を私は思い出し、長年の修煉状態を振り返ってみました。生活の中で、仕事の中で、ひいては大法の活動の中で、私のやっている全てのこと、考えているすべての念は、師父がおっしゃった三つのことであったとしても、いずれも自分の為に行っていたのであって、自分の根本的な利益を守るためでした。あるいは、人に妨害されないようにするためでした。これは本当に修煉なのでしょうか?

師父は『師が法を正すことを手伝うとは何か』の中で次のようにおっしゃいました。「「師が法を正すことを手伝う」とは大言壮語でも空論でもありません。実は私はいくつかの問題を話しただけで、法を信じていない事例はまだたくさんあります。」と。師父は法を正し、できるだけ多くの衆生を救い済度されようとしています。しかし、私の心はこのようではありませんでした。私はいつも、大法の中で得をしようと思い、高い次元を追求し、自分の認識を放下できませんでした。私は師父が圓容しようとしていることに心を尽くしていないのです。ここまで書いて、私の内心に、もはや師父から何かを得ようという考えは無くなりました。私の唯一の願いは、師が法を正すことを手伝うことです。師父が救おうとしている、全ての衆生を救うという目的を達成することです。法の基準は絶対です。決して師父と衆生、そして自分に申し訳のないことをしてはいけません。最後の限られた時間の中で、しっかりと行いたいと思います。
 

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/7/26/244403.html)