日本明慧
■印刷版   

修煉は難しいかどうかではなく、信じるかどうかの問題である

中国の大法弟子

 今日、私は『転法輪』を読み、師父が説かれた、「修煉して上の次元に到達するまでは、そんなものがあるはずがなく、信じられない、と思い込みます。これは、次元によって決まってきたことで、その人の思惟もそれから先へは昇華できないのです」(第二講「天目について」)という法理を勉強しました。

 私は『転法輪』を読みながら、「私たちがいろいろな事に直面している時に、その事自体が難しいか難しくないかは問題ではなく、大事なのは、私たちが法を信じているかどうかが問題なのである」ということを、突然、認識することできました。

 例えば、法を勉強している時に、眠くなったら、法を読み続けることが非常に難しいと感じてしまいますが、「我慢すれば私は乗り越えることができる」と大法の威力を本当に信じていれば、この眠さに邪魔されず、法の勉強を続けることができます。結局、眠いなんて全然感じません。

 あるいは、疲れたと感じた時に、煉功すること非常に難しいと思いますが、「煉功は体力の回復に最も早い方法だ」と信じて、煉功すれば、疲れたと感じることはなく、逆に心身ともに力が満ち溢れてきます。

 この2つの簡単な例から見ても、私たちが信じているかどうか、師父の要求された通りに行うかどうかにより、直面している問題に対する感覚が変わってくることが分かります。信じてしっかり行えば、難しいことでも簡単に行えるはずです。逆に、信じていなければ、どんなに易しいことでも非常に難しと感じ、できなくなります。

 このような例はたくさんありますが、ここではこれ以上挙げません。師父は『転法輪』の最後のページに、「本当に修煉を決意した人にとっては、もし耐えることができ、さまざまな利益を前にして執着心を捨て去ることができ、そういうものに淡泊になれたら、こういうことを真に実行できれば、難しいことは何もありません」と説かれています。

確かに師父のおっしゃる通りです。本当に師父の教えを信じ、師父の要求された通りに行えば、難しいことは何もありません。問題は自分自身が師父を信じ、法を信じているかどうか? どのぐらい信じているか? に有ります。

 従って、真に信じることこそが修煉の基礎であり、その「信」がなければ、全ては根のない木のようであり、源のない水のようになってしまいます。

 

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/8/4/244907.html)
関連文章