日本明慧
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修煉は難しいかどうかではなく、信じるかどうかの問題である 文/中国の大法弟子 今日、私は『転法輪』を読み、師父が説かれた、「修煉して上の次元に到達するまでは、そんなものがあるはずがなく、信じられない、と思い込みます。これは、次元によって決まってきたことで、その人の思惟もそれから先へは昇華できないのです」(第二講「天目について」)という法理を勉強しました。 私は『転法輪』を読みながら、「私たちがいろいろな事に直面している時に、その事自体が難しいか難しくないかは問題ではなく、大事なのは、私たちが法を信じているかどうかが問題なのである」ということを、突然、認識することできました。 例えば、法を勉強している時に、眠くなったら、法を読み続けることが非常に難しいと感じてしまいますが、「我慢すれば私は乗り越えることができる」と大法の威力を本当に信じていれば、この眠さに邪魔されず、法の勉強を続けることができます。結局、眠いなんて全然感じません。 あるいは、疲れたと感じた時に、煉功することが非常に難しいと思いますが、「煉功は体力の回復に最も早い方法だ」と信じて、煉功すれば、疲れたと感じることはなく、逆に心身ともに力が満ち溢れてきます。 この2つの簡単な例から見ても、私たちが信じているかどうか、師父の要求された通りに行うかどうかにより、直面している問題に対する感覚が変わってくることが分かります。信じてしっかり行えば、難しいことでも簡単に行えるはずです。逆に、信じていなければ、どんなに易しいことでも非常に難しと感じ、できなくなります。 このような例はたくさんありますが、ここではこれ以上挙げません。師父は『転法輪』の最後のページに、「本当に修煉を決意した人にとっては、もし耐えることができ、さまざまな利益を前にして執着心を捨て去ることができ、そういうものに淡泊になれたら、こういうことを真に実行できれば、難しいことは何もありません」と説かれています。 確かに師父のおっしゃる通りです。本当に師父の教えを信じ、師父の要求された通りに行えば、難しいことは何もありません。問題は自分自身が師父を信じ、法を信じているかどうか? どのぐらい信じているか? に有ります。 従って、真に信じることこそが修煉の基礎であり、その「信」がなければ、全ては根のない木のようであり、源のない水のようになってしまいます。
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- 無条件で師が法を正すことを手伝うこと
- 正念と正しい行動を保つこと
- 師父が私と夫を救ってくださったことに感謝いたします
- 法をしっかり学ぶことは、師を信じ、法を信じることの基礎である
- 2カ月煉功して急性腎不全が快復した
- 『転法輪』の通読は大事
- 刑務所で『転法輪』の内容を思い出した体験
- 高校生:修煉は大法を利用することではない
- 師父を信じ、法を信じ、心性を修める
- 新しい学習者:師父の洪大な恩に感謝