「求める心」という根本的な執着を取り除こう
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 【明慧日本2012年10月10日】長い間、私はあることに困惑してきました。会社では、私は師父のお教え通りにまじめに仕事に取り組み、万事において他人のことを考慮してきましたが、そうするうちに、ますます多くの同僚に敬遠され、以前のように尊敬されたり、好かれたりされず、排斥され、非難され、そして協力されなくなりました。家では、私はできるだけ家族の好む食事を用意し、かなり神経を使っていましたが、そうするうちに、家族はますます不満の声を上げ、毎回の食事の際にあれこれと選り好みをして、私はどうしたらよいか分からなくなりました。個人修煉において、私はできるだけ三つのことをよりよく実行し、周囲の人からは同年齢の人より若く見え、評判を得ていますが、それでもある程度の白髪が出できて、顔色も白くて、艶のある良い状態ではありません。私はいろいろな面から見たこれらの正しくない状況に囲まれてしまいました。

 抑圧と悩みの中で、私は学法を通じで突破口を作ろうと思いました。しかし、学法すればするほど自分が法に符合しているように感じ、周囲の人達は私の弱さに付け込んで私をいじめているように思いました。私は平素の慈悲、穏やかな気持ちを改め、自己主張をしていこうと決めました。私は全体の協調を無視する同僚を厳しく批判し、同僚の困難を共有せず、自分のやるべきことをきちんとこなせば他人の心配はいらないと思うようになり、今の人達は道徳水準が低下し、善悪も分別できず、私はきちんと自分のすべきことをするだけで十分だと思いました。これが心の放下だと私は思いました。家族が再び食事の選り好みをする際、私は彼を厳しく批判し、自分の犠牲と苦労の数々を述べ、彼の恩知らずの冷たさを指摘しました。体に現れている良くない状況に関して、私は仕方なくこう思いました。「多少は常人社会の状態に符合しなければならず、大差が出ないのが普通でしょう」こうして、私は自分を慰めましたが、不平不満と困惑の気持ちから抜け出せませんでした。

 最近、ある同修は慈悲を持って厳粛に私の不足を指摘し、同修の穏やかな語調を聞き、私は心に抱えた悩みと憤怒が少しずつ消えていきました。私は問題の核心が見え、それが今まで見つけられなかった私の根本的な執着でした。それは、良い結果を強く求める心です。

 大法に出会った当初、私は修煉を通じで神仏の境地に達することができることを知り、瞬時に人生が明るくなり、人生の希望が見えてきたのを覚えました。この感覚自体は、根本的な執着の現れです。当時の私はこれに少しも気づきませんでした。その時、私の潜在的な考えは、自分がしっかり行えば、全てが素晴らしくなっていくでしょう。それゆえ、修煉の初めから私は「上士」になろうと奮闘し、各方面で自分を厳しく律し、周りの同修からも「精進」しているように思われました。確かに、私の仕事、生活環境、そして体に大きな変化が見られ、私は日々楽しく生き、楽しく修煉し、「仙人のような生活」を送っているような時期でした。

 しかし、7.20の弾圧により、私は突然修煉の方向を見失いました。全てが私の理解と許容範囲外で、私が期待していた「素晴らしい結果」とはほど遠いものでした。しばらく修煉を堅持した後、私は巨大な圧力と屈辱のもと、本心では修煉を諦めたくないですが、現実ではだんだんと大法から遠ざかりました。今振り返れば、自分の根本的な執着が自分の迷いを引き起こし、素晴らしい結果への執着が自分の判断の目を覆い尽くしました。

 慈悲なる師父は私を見捨てず、その後、私は徐々に修煉をし始めました。再び修煉を始めてから、私は学法を通じて迫害が起きた原因を知り、今の大法弟子の修煉は個人修煉に留まらず、衆生を救う使命を背負っているがゆえ、大法弟子が衆生を救うことを邪魔する一切の状態が存在してはならず、師父は邪悪の一切の按配を認めず、大法弟子も不当な待遇を甘受する必要がないことを知りました。これが分かってから私の恐れる心が消え、迫害を否定する念が岩石のように堅くなりました。最初、私は当初の迷いは修煉を始めたのが遅く、学法が浅く、法を正す時期の修煉について深く知らないことに由来していると思っていましたが、実質的にもっと修煉の方面で自分を深く掘り下げれば、根本的な執着を見つけることができたかもしれません。

 しかし、修煉の過程で私にもう一つの困惑が生じました。不当な待遇に遭う際、ひたすら甘受してはいけませんし、大いなる忍の心も必要ということです。同じく法の中の要求ですが、私は理解に苦しみ、同修と交流しても解決できませんでした。ゆえに、私は修煉においてよく極端に走りました。時にはレベルの低い常人の言動を軽蔑し、常人と争ったり、時には常人の一切の言動に興味を見せず、問題に遭ったら避けて通ったり、あるいはひたすら甘受したりします。どの極端に走ってもその時は自分が法に沿っていると思いますが、時間が立てばその行為は間違いだと認識し、またもやもう一方の極端に走っていきます。

 実際細かく分析すれば、この矛盾の根本は「素晴らしい結果」への執着でした。もし選択する前に結果を考え、どうすれば「素晴らしい結果」を出せるかを基準にすれば、当然矛盾を感じます。なぜなら、常人が「利得を得る」のと、修煉者の「徳を得る」とは相反するものです。もし、常人の生活が「邪魔されず、迫害されない」ことを重視すれば、「争い」が選択肢となり、たとえ我慢して争わなくても、内心では不平不満を感じるはずです。もし、修煉者の「慈悲心を修め、動じない」ことを重視すれば、「我慢」が選択され、我慢が重なれば、終いに困窮に陥り、法に対して懐疑を抱くことさえあります。どのような選択をしても、結局自分を放下しておらず、どっちも「素晴らしい結果」への執着であり、真に法に沿って正しい判断をしていません。

 今の私が思うには、修煉者として、どんな時も完全に自分の損得を放下し、ひいては修煉により得た「素晴らしい結果」も放下できるかどうかが自分にとっての重大な試練です。なぜなら、それが根本的に私が師と法を信じているかどうか、真に修めようとしているか、あるいは「素晴らしい結果」という利得を得ようとして大法を利用しているかどうかの試練です。修煉の過程で、修煉者には確かにいろいろな素晴らしい超常現象が現れますが、それが大法によるもので、大法の慈悲と威力の現れです。しかし、修煉者はこれらを得るために修煉してはいけません。もし、このような求める心を抱いて修煉すれば、それがいくらわずかであっても、いくら隠蔽的であっても、それは真の修煉ではありません。なぜなら、「常人の心を放下できるかどうか、これは真に常人を超えることに向かっていくための至難の関なのです。真に修める弟子であれば誰でも超えなければならないもので、これは修煉者と常人の境界線です」(『精進要旨』「真修」) 

 完全に個人の損得から抜け出し、「素晴らしい結果」への執着を放下し、純粋に法に沿って判断すれば、問題に遭遇する際に外に向けて探したりいら立ったりせず、いろいろなトラブルから一歩離れ、自在に自身を修め、常人の「是非の追求」に陥らず、どんな状況下でも心が動じず明白に法の要求に沿って正念を持って正しい行動を起こせるでしょう。そして、常人に対し、無意味に 合わせたり、我慢したり、甘受したりする状態から抜け出て、何かあってもすぐに極端に走らず、慈悲と威厳をしっかりと修めることができるでしょう。また、広大な寛容と慈悲をもって衆生に接し、正念で相手の正邪の判断を導き、徐々に一切の正しくない要素を正し、常人の不当な言動に忍を持ち、同時に他空間の旧勢力による邪魔や迫害を見極め、正念で滅することができるでしょう。

 今、自分の周辺環境を振り返れば、一切のトラブルは私の「素晴らしい結果」への執着をなくすためにありました。自分のこの強い人心がなくならないがゆえの悩みでした。今考えてみれば、もし自分が本当にこの心を放下できれば、直面する一切のことはただただ宇宙の生命にある正常な現象で、大したことでないことを認識できたはずです。生命の次元と好き嫌いは本来千差万別で、私の行いに理解を示そうが示すまいが、賛成しようがしまいが、どっちも正常です。そして、他人の不足を理解し、淡々と他人の非難や善し悪しの評価に対処し、問題の前で正念を持てば、これ自体が修煉です。大法を修める人は福のある人で、大法弟子の使命と威徳は巨大ですが、これゆえ一切のことに譲歩されるものではありません。修煉の道のりで、自分のものは一つもなくさず、乗り越えるべき関も一つも漏れてはいけません。これらの関や難こそが自分は本当の修煉者であるかどうかの試練です。もし、自分は「尊敬、賛美、平安、健康」などなどを失うことで悩むなら、修煉の本質をまだはっきりと認識できていないことになります。

 これらのことが認識できて、今まで心に積もった悩みが一気に消え、全身の軽快感を覚えました。師父に感謝し、私を助けてくれた同修に感謝します。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/8/28/262081.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2012/9/2/135257.html)
 
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