排他的な心を取り除く
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 文/遼寧省の大法弟子

 【明慧日本2013年10月10日】これは2000年4月に起こった話です。私が天安門広場派出所から北京駐在事務所まで連行される途中、警官に「あなたは人に対して寛容ではないのですか」と言われた一言が一生忘れられません。当時は返答に困って冷や汗をかくばかりでした。その警官は1999年7月から大勢の大法弟子と接触してきたため、ある程度、修煉の事を理解していました。あの時から自分にとても良くない心があることを認識できました。

 修煉はまさに人心を取り除く過程ですが、しかし私にあった「排他的な心」はなかなか取り除けませんでした。表面に浮かんできたのは一つの人心でしたが、実際は真相を伝える中で潜んでいた沢山の心が、衆生を救い済度することを妨害していました。常に自分の言う事を聞いてもらおうと他人を説得していました。このため、自分でも悩んでいました。

 師父は「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」と、おっしゃいました(『精進要旨二』「妨害を排除せよ」)。学法を通じて、洪大な寛容は修煉者に備わらなければならない状態だと理解でき「常に他人の良いところを見よう」と自分に言い聞かせました。師父が教えてくださった「比して学び比して修す」は、まさにお互いが励まし合うことです。

 今は、衆生を救い済度するとき、常人の執着に合わせて真相を伝えられるようになりました。修煉の向上につれ、超能力も益々高まっていると実感しています。常人の事なら話しかけられただけですぐに相手の気持ちが分かったり、健康状態も分かったりしまいます。よく相手の健康問題をズバリと言い当てていたので、信頼されるようになり、それから大法の真相を伝えていました。このような超能力は周りから羨ましがられますが、私は修煉から得たものだと話しています。

 私は1人暮らしをして9年が経ちました。色々あった中でこの「排他的な心」は既に取り除かれたと思いました。しかし昨年、10数年間も離れ離れになっていた息子が私のそばに戻ってきた後、再び現れてきました。10数年の時が、私達に隔たりを作ってしまい、お互いに他人同士みたいになってしまいました。良くない事をしている彼に指摘すると「お母さんだって同じではないか」と言い返されました。「なんだって? 私が同じだと?」。私はすぐに、息子はまさに私の鏡だと悟りました。師父は常に自己を写しだせるように、一枚の鏡を私のそばに置いてくださいました。それ以来、また問題が起きたら一歩譲って角を突き合せないようにしていました。息子も私とだんだんと仲良しになり、今は「夜中の発正念を忘れないように」と、注意してくれる程です。

 「関係のあるすべてを愛してしまう」ということわざがあります。「つまり、人を愛していればその人の欠点まで愛してしまいます。人を嫌うならその人の長所まで嫌いになってしまいます」。私はいつもそれを使って常人に物事を語ります。ほとんど人は「その通りだ」と賛同してくれます。ある日、私は突然「どうして人を愛していればその人の欠点まで愛せるのか?」と考えてみました。それは人に対する寛容さではありませんか? しかし、常人の寛容さは条件付きで私的なものです。ですから、人を嫌うならその人の長所まで嫌いになってしまいます。しかし、修煉者の寛容さは空と同じように洪大で、無条件のものです。師父は「事々対照し 做すところ到るは是れ修なり」(『洪吟』「實修」)とおっしゃいました。師父が教えられた法理を知るのは容易であっても、しかし、その通りに行うことはなかなか難しいのです。実修しなければなりません。

 師父に感謝申し上げます!

 同修の皆さんに感謝申し上げます!

 合十!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/8/20/278374.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/8/31/141771.html)
 
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