654号『明慧週刊』を読んで、自我から抜け出す
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子 随縁

 【明慧日本2014年10月10日】私は1997年に法輪大法の修煉を始めた古い弟子です。しかし、個人修煉においては、いつも自分の問題点を見つけられませんでした。表面上では、私はとても精進しているように見えます。時間があれば法を学び、テレビは一切見ず、毎朝の煉功も欠かさず堅持し、三つのことは当然よく行っています。私と交流した同修からも、私は法理を明確に理解していると言われ、‎人との接し方においても、私は大法に沿って、自分に厳しく要求し、決して大法に泥を塗るようなことはしません。同修に対しても、できる限り区別せず、他人の長所を取り入れ、自分の短所を補い、全て師父の弟子であり、平等に見るように努めています。同修に執着心があれば、善意をもって指摘し、共に向上し、そのため、同修からも良い評価を得ています。しかし、私の姿・形など外見はまったくひどいものでした。

 大法の修煉者としては、修煉すればするほど若くなるはずですが、これも師父が法の中で説かれています。しかし私は非常に老けており、同修である夫もいつも私のイメージは大法に泥を塗り、常人にも及ばないと言っています。特に外出する時、私は顔色が悪く、痩せている自分の姿が良くないと思い、外で真相を伝える時、いつもマスクをして、身なりにとても気を付けるようにしていました。しかし、夏季の農繁期になると、私はさらに黒くなり、やせて、目が落ちこみ、修煉者のあるべき姿ではありません。私はとても悩みました。

 私は家庭では自分をしっかり修めていないとよく分かっていました。私は夫に対していつも態度が悪く、気に入らないことがあれば、すぐかんかんになって怒り、夫のどこもがすべて目障りで、また毎回指摘して責め、酷評していました。それは私の人心が重すぎたからです。私は法理をよく理解しているようですが、しかし、それはすべて他人を修めるために用い、夫の一挙一動、一思一念をすべて法理に照らし、時には彼のために焦って涙も流しました。また、聞こえのいいように、「あなたを引っ張って修煉するのは本当に大変だ。もし、あなたが傍にいなければ、私はもっと楽にできたのに。私が向上できないのはすべてあなたのせいです」と言いました。とにかく、私の目から見れば夫には良い所は一つもありません。

 私はこのような状態の自分を修めないのは良くないと分かっていました。同修にも「あなたの空間場の魔性はとても大きい」と言われました。私はそれを改めようと決心しました。時には、怒った後で後悔し、時には自分で自分をビンタして罰し、我慢できなかったことを悔み、次回は必ず我慢しようと決心します。しかし、次回もまた同じで、それの繰り返しでした。私は大変悩みました。家庭は魔性を引き起こす温床となっているのです。これは私の修煉の中でもっとも大きな関門となりました。どうすればいいのでしょうか……?

 『良くない状態は強烈な自我から』という文章を読んで、私は愕然としました。これはまさしく私のことを言っているのではありませんか? 外で同修に見せているのはすべて表面だけであり、家庭では自分の本性を余すところなく暴露していました。他人との問題は乗り越えられるのに、家庭の中では乗り越えられません。それはなぜでしょうか? なるほど、その根源は「自我」だったのです。私は目が覚めました。自分の強烈な「自我」が見えるようになりました。

 10数年歩んできた修煉の道を振り返って見ると、どの一歩も師父の慈悲なるご加護があったからこそでした。もし師父がいらっしゃらなければ、もし大法がなければ、私は帰路を歩むことがあったでしょうか? 一人の人間がこの世で類のない大法を得られることは、どれほど幸運なことでしょうか? 時には、人の流れの絶え間ない道を歩きながら、この多くの衆生を見て、果たしてその中の何人が幸運にもこの大法を得られるのでしょうか、そう思うと、本当に感無量です。

 しかし、自分は法を得ているのに、なぜ自分をしっかり修めないで、他人ばかりを修めるのでしょうか? 私が時々指摘した問題は間違っていないにしても、しかし、その言い方に優しさがありませんでした。いつも非難するか責めるかのどちらかで、夫に反抗心を生じさせ、すると彼は「分かっている。あなたに言われなくて結構」と反抗的な態度をとり、そう言われた私はさらに焦ってしまいます。彼が気付いていない、他人に指摘されても受け入れたくない、執着心がなかなか取り除かれない、修煉ができない…。この悪循環となりました。今回、私はやっと悟りました。彼が向上できない原因は私にあったのです。私のこの強い顕示心と独りよがりな心が邪魔をして、彼の向上を妨げていました。

 私は思えば思うほど恥ずかしくなり、本当に師父の慈悲なる済度に申し訳ないと思いました。今回、私は観念を真っ向から変えました。再び夫を見ると、目障りでなくなりました。私は彼に対して済まない気持ちでいっぱいです。今、彼がいくら怒っても、私はまったく気にせず、逆に、昔の自分を見ているようでした。今回、この反対の味を味わわされ、密かに笑ってしまいました。これは私が10数年来の修煉で始めて味わった「忍耐」の味でした。

 内に向けて探すことは本当に一つの宝器です。本当に自分の根本的な執着心を認識すると、また同じ問題が起きても、苦心して忍耐することもなく、すべて過ぎ去っていきます。修煉は本当に大いに自由自在です! 楽しいものです。

 以前、私のイメージは良くありませんでした。それは自分の業力によるもので、全身の真っ黒な物質でした。今回、師父は私が気付いたことをご覧になって、私からその悪い物質を取り除いてくださいました。私は全身が楽になり、一日中笑顔で、何かめでたいことでもあるかのようです。これは私の修煉の道で、家庭内の問題での初めての悟りであり、そして向上でした。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/10/3/298466.html)
 
関連文章