修煉者の楽しみ
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 【明慧日本2015年12月12日】常人には常人の楽しみがあり、神には神の楽しみがあり、修煉者には修煉者の楽しみがあります。修煉者は常人の楽しみを求めません。法を得れば、すでに三界内の生命ではなくなったからです。

 師父は「真相を伝え、衆生を救い、これはすなわちあなたが行うべきことです。これ以外に、あなたが行うべきことはなく、この世界であなたが行うべきことはありません」[1]と説かれました。大法弟子としての意味を明確になさいました。一部の同修はこれを読んだ時、プレッシャーを感じました。やはり人間の観念で考えているからです。私はプレッシャーを感じた時は、ベッドに横たわって休むことにしていました。繰り返しているうち、この状態は正しくないと気づきました。それからは正念を発して、自分を左右する情と人間の観念を取り除きました。それ以降プレッシャーを感じたことはありません。大法の修煉は奥深いものです。大法弟子は決して小道修煉の苦行僧(悟りを開くために厳しい修行をする人)ではありません。私たちは世間で修煉している以上、大法修煉の素晴らしさを、世人に見せるべきです。大法から自分の楽しみを見つければ、大法の素晴らしさを反映することができます。衆生を救い済度する道を、しっかり歩み続けることができます。

 私の楽しみは座禅と学法です。読書は小さい頃からつけた習慣です。大法を修煉する前は、読書は人生の真理を探す方法でもありました。修煉してから、大法の本を読めば読むほど、修煉の楽しみを感じています。私は元々焦りがちで、自我が強く、完璧を求める性格でした。修煉してからは、座禅をすると入定します。その美しく神聖な状態が、自分はすでに常人ではないと実感させてくれています。修煉当初いくら痛かったにしても、入定まで我慢し続けることができました。プレッシャーを感じたり、イライラする時、いつも座禅をします。入定すれば、執着が希薄になり、心が静まります。私にとってて、座禅はすなわち空の状態で休むことです。

 以前私は発正念を重視せず、迫害を受けてしまいました。それから発正念の習慣を身につけました。難関に直面した時、心性が不安定な時、体の調子が良くない時などに正念を発すると、体も心も軽やかになります。同時に、修煉の自信も増してきます。正念はだんだん強くなるものです。発正念の中で修煉の楽しみと神聖さが体験できます。師父は「初心を忘れずに修煉していけば、必ず正果を得ることができると言われています」[2]と説かれました。修煉から楽しみを感じることができれば、初心を保ち続けていけます。

 生命が存在する意味と法の貴重さを真に分かれば、修煉以外の楽しみを求めたりしません。確実に修煉している大法弟子は必ず充実し、幸せを感じています。宇宙の大法は異なる次元の生命に、異なる動機と楽しみをお与えになっているからです。修煉の中で苦を感じる時は、人間と神との間で迷っている時です。人間のものを放下できず、神のものもほしがり、人間と神の間でぶつかり合っているから苦しいのです。

 修煉者と常人の価値観は違います。修煉者は師父が法を正すことを手伝い、同修と協力し合い、衆生を救っています。この三つの関係を正しく対処できるのが肝心です。常人の場合、気に入った会社を選んで就職し、上司に按配された仕事をこなします。こなせなかったら、自ら責任を取ります。決して上司のせいにしたり、恨んだりすることはありません。同僚とトラブルが発生した時は、積極的に解消するように努めます。誰も不愉快な環境の中で仕事をしたくないからです。会社から給料をもらって家族を養うのは当たり前です。家族に感謝されなくても、自分の苦労を分かってもらえなくても、自分の責任だから、何とも思いません。大法弟子として、私たちは自ら師父が法を正すことを手伝っています。自分がしっかり修煉できなかったせいで迫害を招いたら、師父を怨んだりすることはできません。同修とトラブルが生じると、これから協力しあうため、積極的に解消すべきです。世人を救うとき、相手が受け入れても、受け入れなくても、真相を伝えるのが自らの使命と責任だと見なすべきです。三つの関係をうまく整理しておけば、これらの問題に出会った時、理知を持ってそれに対処することができます。

 以上、個人の現段階の認識ですので、不足があれば、ご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』
 [2] 李洪志師父の経文:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/12/8/319938.html)