文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年2月28日】今日、私は『洪吟』の中の「無存」[1]を読んだとき、「妄念」とは何かを考えました。確実ではないと思いますが、今日は、師父の慈悲なる教化の下で、私は自分の次元で把握できた新たな理解がありました。
私は、すべての人心、観念、経験、教訓、そして、法に基づいていない執着、思いなどは全部「妄念」だと思います。これらのものは徹底的に取り除かなければなりません。「私は何、何をしたいの」のような執着は、普段気づきにくいものです。しかし、この執着も「妄念」ではないでしょうか。
このことを通して、私は考えました。いつも、自分の頭の中に「妄念」(訳注:もうねんとは、迷いの心)が本当に多いので、どうやって「蕩尽」(訳注;とうじんとは、すっかりなくすこと)するのでしょうか?解決方法は一つしかないと思います。つまり、自分の一つの考え、一つの思いでも、真面目に対処すべきです。たとえ知らないうちに 瞬く間に出てきた一念でも、法の基準ではかり、自分の観念ではかってはいけません。法に基づいていないわずかな要素があったら、ただちに正し、放棄し、曖昧なことをしません。
皆よく知っていると思います。修煉の中に小さなことはありません。自分は多くの小さなことを気づかないうちに、だんだんとそれが大きな漏れを形成したことがあります。これから、小さなことでも真剣に対処しなければなりません。毎日毎日続けていけば、「妄念を蕩尽すれば」との距離は、もう遠くないでしょう。
わずかな体験ですが、このことについて同修と交流しましょう。法に基づいていないところがあれば、慈悲でご指摘ください。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「無存 」
洪吟 【無存】
生無所求 生きて求める所無く
死不惜留 死して留まるを惜しまず
妄念蕩尽 妄念を蕩尽すれば
佛不難修 佛を修するは難しからず
(編集者追記)