寂寞の中での堅持
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文/承恩

 【明慧日本2016年5月5日】時間の経過とともに、多くの修煉者に望ましくない振る舞いが見え始め、最初のころの勇猛邁進の状態からだらけるようになりました。人間社会の煩雑なことに時間を多く取られて、商売に没頭したり、孫の世話でてんてこ舞いをしたり、また一部の人は人間社会で何かを成し遂げようとも考えているようです。これらのすべては修煉者が人心を放下していないがゆえに招いた結果です。

 人心を取り除かなければトラブルは多く発生し、用事も多くなり、学法の時間がなく、真相を伝え衆生を救う時間がなくなります。また、寂しさも修煉者の意志を磨耗してしまいます。精進できない状況の中にいればいるほど、すぐに常人の事に動かされ、常人に陥って旧勢力の按排した道を歩むことになってしまいます。

 人心を取り除くことができない原因は多くあると思いますが、私が見てきたいくつかの原因を述べさせて頂きます。

 一、修煉は上辺だけに留まり、修煉の本質を掴むことができず、方向がすでに大きくずれているにも関わらず自分を法と照らし合わさず、内に向けて探さないタイプの人がいます。このような人は真に心を修めていないので、当然、修煉が形だけになってしまい、人間の方法で無理に修煉の形を維持しようと頑張っていくうちに麻痺状態に陥り、ダメになってしまいます。

 二、自分の頑固な執着に気づいても、真に自分を変えようという決心がつかない人がいます。学法の際は自分の間違いが分かりますが、いざ問題に遭遇すると、またも同じ間違いを犯してしまうので、真に修煉を日常生活の中に溶け込ませていないことになります。実際、私たちの修煉形式は日常生活、仕事の中で修煉していくものですが、一部の人は学法をしている時だけを修煉と考え、仕事や日常生活に戻ると常人に戻ってしまいます。このような人は以前の他の修煉形式の影響を受けており、大法の大道無形の真義を理解していないと思います。実質、私たちが遭遇したすべてのことには修煉が向上できる要素が含まれています。こうして、いくつかの問題において自分を変えようとしないまま時間が流れてしまうと、その状態に慣れてしまい、いかに突破しようという考えもなくなります。

 三、一部の同修は法を学ばず、人を見て学び、いつも上辺の現象だけで修煉状態を量り、結局、トラブルに遭ったとき、いかに対処すべきか分からなくなり、誰かに教えてもらわないとどうすべきかも分からず、長年修煉してきて、いまだ法に則って問題を考えることができず、法をもって物事の良し悪しや是非を判断できず、真偽の分別もできません。

 四、一部の同修は長い間着実に修めず、問題がどんどん膨らみ、乗り越えることができなくなり、修煉状態も悪化する一方で、しまいには人間の一面も消極的になり、修煉に対し大きな疑惑を抱くことになってしまいます。このタイプの人は表面上修煉に対し堅い信念を見せていますが、内心では執着が深く隠されています。

 一部の同修は自分が師と法を信じていると思い込んでいますが、そうではありません。真に師と法を信じているなら、なぜ真に大法の要求に従って実行しないのですか? 私達は修煉を始めたばかりでなく、実際、多くのことにおいて何をどうすべきか分かっています。しかし、それを実行していません。または自分を変えたくないだけです。それが本当の修煉ですか?

 修煉とは何でしょうか? 何を修め、いかに修め、何を重んじるべきか、いかに三つのことをより良く実行するか、またなぜうちに向けて探さなければならないか、いかに自我を放下するか、これらのもっとも基本的な問題に対し、いまだにはっきりとした認識を持っていない同修がいます。彼らはただひたすら表面的な形に沿って流れていき、自らの独自の思考をもって、自分が法を実証する修煉の道を歩んでいません。これは修煉とは言えず、ただ機械的な宗教形式になっているだけだと思います。真心を込めずに三つのことを実行していても、形式に流されているに過ぎません。毎日、形式的に三つのことを行うのではなく、真に法を学ぶことができたかどうか、真に執着を放下する決心がついたかどうか、真心からあらゆる方法を考え尽くして衆生に真相を伝え、衆生を救おうとしているかどうかを自問すべきです。もし真心が働いていなければ、そのすべては形式的なものになっているのではありませんか? 

 修煉は寂寞たるものです。大法弟子たちは今の修煉の機縁を億万年かけて待ち望んできました。それに比べ、この数十年の修煉の時間はほんの一瞬にしか過ぎません。しかも、私たちはまさに今日のために、歴史の流れの中で多くの苦労を嘗めてきました。この偉大なる時が来た今、二十数年の修煉をしただけで、多くの修煉者はだらけて来て、甚だしきに至っては精進の意志が麻痺し、本当に惜しい限りです。

 昔の修煉者は深い山や洞窟に入って、寂しさに耐えながら悟りを得るために、すべてにおいて自ら努力しなければなりませんでした。しかし、私たちは絶えず師父の説法を聞くことができ、法会や学法グループで同修と交流することができて、精進を続けられない理由がなにかあるのでしょうか? もちろん、私たちは常人社会に身を置きながら修煉しています。しかし、私たちは世間のものを得るために世に下ったわけではなく、自分を良く修め、大法を実証し、衆生を救うのが私たちの念願です。

 正直、多くの同修はだらけるようになり、一部の同修が同じ次元に長く留まっていることを目にし、辛くなって上記のことを書きました。これだけ大きな法の中で修煉しているにもかかわらず、私たちの修煉状態は望ましくなく、世人に大法の素晴らしさや無量の智慧、慈悲と威厳を見せることも出来ていません。私自身も修煉の寂しさを実感しました。しかし、この寂しさの中で、私たちは必ず修煉を堅持し、三つのことを良く実行し、貴重な時間を浪費せず、常人のいかなることにも惑わされず、師父に要求されている三つのことを首位にすべきです。これ以上消極的にならず、勇猛邁進し、大法修煉の中で得た正覚を持って宇宙を明るく照らしましょう! 大法の福音を世界中に知らせ、大法の慈悲を貴い世人の一人一人に伝え、誓約を果たし、使命を全うしましょう!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/4/2/326133.html )
 
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