刑を下された同修の救出について考える
■ 印刷版
 

文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2017年3月3日】江沢民への告訴が始まって以来、地元で広範囲の迫害が発生しました。迫害の勢いは凄まじいものでしたが、私達の正念が強ければ、邪悪を一掃することができ、邪悪の人間の一面も衰えて行くでしょう。とは言え、やはり多くの同修は刑を科せられました。自分が妨害される経験を振り返るとき、幾つかの問題点に気づきましたので、それを書き出して皆さんと交流したいと思います。適切でない所があれば、ご指摘下さい。

 一、同修が刑を下される前、皆さんは力を尽くして同修のために発正念をし、迫害を否定しましたが、刑を言い渡された後、関心を持つ人が少なくなり、潜在意識の中に、刑期が満了にならなければ出て来られないとの考えが働くようになります。しかし、私達が旧勢力の迫害を認めないと言うからには、科せられた刑まで否定すべきではないでしょうか。同修が刑務所から出たいという意識があれば出られるはずだと私は見ています。刑務所に入れられると、人を救うことに悪い影響を与えるので、そこから出るべきです。しかし、多くの同修は現実を重く見すぎて、邪悪の話を聞き入れてしまい、その結果、本当に出られなくなります。

 師父は「よく考えてみてください。人に見てもらった以上、それを聞き入れ、信じてしまうのではありませんか? それによって、精神的に負担がかかってくるのではありませんか? 負担がかかると、気が気ではなくなりますが、それは執着心ではありませんか? この執着心をどうやって取り除けばよいでしょうか? これによって、人為的に難をまた一つ増やしただけではありませんか? 新しく生じた執着心は、よけいに多くの苦しみに耐えて、はじめて取り除くことができるのではありませんか」[1]と説かれています。

 私の理解では、邪悪が言ったすべてのことを決して聞こうとせず、心に留めず、邪悪からのいかなる約束、良い言葉、悪い言葉についても、すべてを認めず、すべてを嘘だと否定し、すべて師父のおっしゃる通りにしなければなりません。しかし、多くの人はやはり邪悪の言うことを聞き入れてしまい、自ら魔難を招いてしまうのです。

 師父は「困難を大きく見れば見るほど、問題が難しくなり、相は心から生じるのですから、問題はますます厄介になります。相は心から生じるという言葉にこの意味もあります。なぜなら、あなたはそのことを重く見ており、自分を見下したからです」[2]と説かれました。また「邪なものに妨害されず、それに動かされなければ、良くない要素は自分のところから生じることはなく、邪悪が微々たるものになり、皆さんは大きくなり、正念が強くなるのです。本当にいつもこの情況です」[2]とも説かれました。

 どうしても心性の基準に到達出来ない場合、師父にお願いして、病業の仮相を作っていただいても構いません。そうした場合、心をしっかり保たなければなりません。一度、私は師父に病業の仮相をお願いしました。もともととても元気だった体が突然だめになり、心拍数が異常に速くなり、心臓が口から飛び出しそうな感じがして目眩が酷く、吐き気がして、立っていられなくなり、すぐにでも嘔吐しそうになりました。本当に検査をしたらどんな結果が出たか分かりません。しかし、このような病業の仮相が消えてなくなると、数分で元気に戻ります。とても不思議に思いました。

 二、警官に悪意に妨害されても、明慧ネットでしっかり迫害を暴く勇気がなく 「誰かがなんとかの警察官に迫害され妨害された」としか書かず、また、報復を恐れてこのような文章すら書けない人もいます。実は、心を放下すれば、邪悪が一掃されるので、その効果はとても顕著です。私の場合、警官達が行った悪行を明慧ネットで発表すれば、凶悪な警官は突然態度を和らげてしまうのです。同修が明慧ネットで迫害された事実を暴かなければ、邪悪を助長し、迫害を助長してしまうので、必ず発表しなければなりません。明慧ネットで発表すれば邪悪は取り除かれるのです。私は心が不安定で、うまく行えず、妨害された場合、必ず明慧ネットで警官の言動を全部暴いて、彼らの悪行を晒します。

 三、留置場に拘禁されている同修は、特に家族も同修の場合、警察官から衣服やお金を届けるようと指示されれば、皆その通りに届けています。もちろん、その過程では、真相も伝えていますが、しかし、言われる通りにしない方がいいと思います。なぜなら、そうすれば邪悪を強化し、旧勢力の迫害を認める事になります。まるで同修が本当にそこに長くいなければならないように思われてしまうのです。警察官が不当に連行したので、彼らはすべての責任を取らなければなりません。さもなければ、解放すべきではないでしょうか。

 四、恐れるが故に邪悪に対して弱腰になり過ぎることはないでしょうか。警察に真相を伝えようとする善意は確かに優しさですが、しかし、良い役割を果たしていません。人を迫害する警察官、特にまったく改めようとしない警察官に対して、刑務所から出てきても、笑顔で彼らに挨拶する人がいます。しかし、このような行動は彼らに間違った印象を与え 「あなた達を迫害しても、責任を取る必要がない、どうせあなた達は恨みを持たないだろう。将来法輪功が再評価されたとしても、謝罪して謝れば、許してもらえる」と彼らに感違いをさせます。それによって、彼らは度々同じ過ちを犯すことになりかねません。反対に、その重大性を話し、彼らの行為は自分と家族に不幸と災いをもたらす結果の恐ろしさを教えるべきではないでしょうか。もし、それが出来なければ、せめて無視して、あえて挨拶をしなくてもよいのではないでしょうか。

 突然ある同修が言ったことを思い出しました。同修は天目から、刑務所のドアが開いているのに、同修は自ら出ようとしない光景を見たと言います。実は、邪悪に協力すれば、邪悪は強くなり、一方、協力しなければ、邪悪は反撃して、脅したりもします。しかし、心を動じることなく、表面の現象を見ないで、彼らの話を聞かず、正念がとても強い時、邪悪は完全に一掃されます。今のこの時期、邪悪はすでにとても少なく、弱くなっているため、迫害された同修は自ら邪悪を取り除く能力があるはずです。刑務所から出ようと考えれば、出られるはずです。しかし、表面の世界を重く見すぎて、その結果、自分の能力を制限してしまうのが事実ではないでしょうか。

 もう一つの問題があります。一部の同修は『明慧週刊』を法のように学び、その通りに行い、その結果、法を学ぶ事が少なくなっています。交流とは何か、法を学び、法を師にするとは何か、それをしっかり区別できなければ、大きな問題になります。皆さんは異なる生活の中で実際に行い、それぞれの家庭や生活環境、性格なども異なります。同じように見える事でも、実はぜんぜん違います。やはり法に基づいて、法の中で解決法を見つけましょう。『轉法輪』の中でどうしても見つけられなければ、『各地での説法』を読んだらどうでしょうか。行き詰まった時、私はいつも早期の説法を調べています。中にすべての答えが必ずありました。

 以上は自分のいくつかの体得です、参考にしていただければ幸いです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/2/25/343507.html)
 
関連文章