大法の弘大、円融と厳粛を体得
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文/米国ミズーリ州の大法弟子

 【明慧日本2017年6月2日】

 師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 幼いころから、私はいつも星空を見上げて、自分がどこから来て、どこに向かうかを知りたくてなりませんでした。80年代の初めごろ、気功が盛んになり、私は気功、超能力、宇宙人などの現象に対して強い興味を持つようになり、佛経、易経、聖書などを研究し始め、心に抱く疑問がますます増えました。その後、私は佛を修めようと決心しました。はじめて『轉法輪』を手にして、3ページを読んだだけで、これが一生探し続けていた真理だとすぐに分かり、大法が弘大、円融、厳粛であることを実感し、他のすべての学説を超越していることが分かりました。大法を修煉できる人はとても幸運な人だと思いました。修煉の中で遭遇するすべての魔難は過去の業力によるもので、すでに大法を修煉することによりだいぶ減らされました。大法の修煉は人生の各方面、たとえば家庭、勉強、仕事に比類のない幸運をもたらして下さいました。修煉の中で取り除いていくのは執着心で、物質そのものではありません。

   法を得てまもなく、私は向上のチャンスに恵まれました。それは、法を広めるために出かけていくことと、家庭の責任との対立でした。当時の私は多くの同修と違い、この対立を単純に妨害だと思いませんでした。この対立をじっくり考えた後、私は家庭における自分の責任を意識し、家庭での責任を重視し、家庭生活を修煉の一部分として考え、家族から多くのものを学びました。

   実は、どれだけの家事を行い、どれだけの時間を家族と共有しているのが問題ではなく、私達の心の持ち方が問題です。自分のことだけを思い、自分の圓滿成就だけに関心を持つのか、それとも真心から他人のことを気にかけ、他人のために犠牲を払い、他人のために苦労を甘受したいかどうかのところです。多くの同修は「非情」が「慈悲」だという落とし穴に嵌りました。家族のことを考えず、家族に関心を持たず、家族に時間を割かないことが情を捨てることだと思ってしまいます。個人的にはそれが間違いだと思います。子供が生まれたとき、私の心は彼らへの愛で満たされました。

 その後の修煉過程で気づき始めたのですが、わが子を愛する気持ちで無条件に他人を愛し、関心を持つことができれば、それこそが情を放下したことです。無条件かつ、分けへだてなくに真心から他人に関心と愛をかけることこそが慈悲への近道です。それは本当に行った家事の量や使った金銭の額、そしてかけた時間の多少の問題ではなく、真に相手を尊重し、関心を持ち、喜んで無条件に犠牲を払うことができるかどうかの問題です。私はそのように考え、そのような行動を取ったとき、家族を含む誰もが理解しました。今は逆に、彼らは私のために多くのことをしてくれているのです。一つの家庭は法を正す師に手伝い、真相を伝える小チームで、お互いに手伝い、ともに真相を伝え、神韻を宣伝しているのです。収入が着実に増えてきたことも生活や真相伝えの各方面に便利さをもたらし、皆は一心に修煉のことを考えることができました。

 1997年、中国医学代表団は米国医学界と交流するためにボストンに来たとき、生命科学と医学の仕事に携わる多くの大法弟子が、医学界に大法を伝えようとしました。その活動を通じて、私は私たちが20年来行ってきた多くの法を広める活動と同じように、主流の医学界への浸透を難しく感じたとともに、ぜひ主流の医学界に入りたいと考えました。大法弟子として、私達は修煉の幸せと大法の素晴らしさを体得していますが、修煉しない人たちはそれを知らず、理解もできません。私達は異なる業界で仕事をし、異なる業界の専門用語を掌握しています。異なる地区で大法を広く伝えたければ、異なる地区の言語ができる大法弟子がしなければならないように、異なる業界で法を広めたければ、異なる業種の専門用語を知る大法弟子が行うべきです。私たちは通訳と橋渡しの作用を果たし、神の使者として、掌握している専門用語を用いて大法の素晴らしさを異なる業界の衆生に伝えるべきです。

 今回のイベントの後、私は米国の医師免許を取得しようと決心しました。1999年7月20日に中国共産党による迫害が始まった後、私は博士の勉強をしながら真相を伝え、同時に医学試験を受ける準備を始めました。毎晩、子供がベッドに入った後、私は夜明けまで医学の復習をしました。当時、何をどう準備すればよいか分からず、一次試験をパスしてから二次試験で落第しました。どう復習すればよいか分からない中で、ずっと見知らぬ人の助けがあり、これは師父によるご加護だと体得しました。こうして私は一歩ずつ進み、米国の医師免許を取得しました。

 もし私が真面目に復習せず、精を出して勉強していなければ、試験をパスすることができなかったと思います。多くの同修は私に、「修煉してから、時間をかけて常人のものを学ばなくても良い成績を修めることができます」と言っています。しかし、私が思うには、30%の努力をすれば30点を取り、60%の努力をすれば60点を取り、95%の努力をすれば500点、あるいは1000点を取ることができます。私が得たのは、自分の努力と払った犠牲をはるかに超える成績でした。師父は私達に「どんな事においてもベストを尽くし、全力を挙げて行うべき」を教えられていると体得しました。家庭や仕事、真相の伝え、神韻プロジェクトへの参与と協調、どんなことも一心に行わなければなりません。

 その後、私は病院の常駐医師になりました。米国の常駐医師はとてもとても忙しいため、管理機構は全ての常駐医師に対して、1週間の勤務時間が80時間を超えてはならないと定めました。昼夜問わずの高強度の仕事環境の中で、当時の私は「要求に達するように努力して、人々が良いと思われる80%程度まで頑張って、残りの時間を真相伝えに回そう」と考えました。実際、常人の仕事に精を出していなければ、常人は感じるのです。上司は私の心が医学にあらずと批判し、甚だしきに至っては、他の医者の前で私の心が天安門広場にあると指摘したこともありました。これは師父が他人の口を借りて私を教育されていると考えました。私は人為的に自分に基準を設けましたが、それは法の基準ではありませんでした。それでは駄目です。

 多くの同修からも、私は同じ問題が見えました。真相を伝える際は全力投球し、家庭や常人の仕事に対しては適当に、維持する程度の気持ちでやっています。プロジェクトには100%の努力をかけて、家庭や仕事には50~60%の努力しかしなければ、最終的には、大法のプロジェクトも50~60%の結果しか得られないかもしれません。なぜなら、心性の高さは各方面において体現され、どの面においても欠かせません。本当によく修めている同修は、家庭、仕事、真相伝えのどの面もよく行っているのです。

 師父は『轉法輪』の中で殺生の問題および、人生の一歩一歩がすべて高次元生命による按排だと言及されています。一人が修煉によってそれらの按排された縁を諦めたとき、真相伝えのプロジェクト以外の生活の各方面におけるできていない部分は、プロジェクトを良く行ったことによって補われることはありません。いかなる関や魔難も、すべて私たちの成し遂げる未来の新宇宙の一部と対応しています。プロジェクトの中でのみ修煉し、家庭と仕事を重視していなければ、対応する新宇宙は恐らく欠けたものになります。

 私には一つの体得があります。それは、私は自分のすべての欠点、生活や家庭、仕事の中で現れたすべての欠点を真相を伝えるプロジェクトに持ち込んでしまうのです。家庭や仕事に対していい加減に行っている同修たちは、普段、プロジェクトにおいていくら心を尽くして行っているように見えても、問題にぶつかると、すべての欠点が暴露されます。機会を見て上手く立ち回ったり、事をいい加減に行ったりにして、どのプロジェクトの中でも同じ問題をもたらし、同じ過ちを繰り返してしまうのです。プロジェクトを行うのはよりよく真相を伝えるためですが、プロジェクトをよりよく行っていくには、生活の各方面においてもできるだけベストを尽くすべきです。ですので、師父が私達に教えられている「最大限に常人に符合しながら修煉すべき」には、この上なく奥深い内包があると実感しています。

   家庭や仕事、魔難に言及する際、同修たちはよくそれが旧勢力の按排なのか、それとも師父の按排なのかを討論します。私が思うには、当時の私と同じく、多くの同修は実はすべてを自分で按排したいだけです。師父はおっしゃいましたが、実は、私たち自身も自分の運命の道の按排に参与しました。修煉当初、私は師父の身辺にいる同修たちを羨ましがっていました。この念が出た途端、「あなた自身が第一線に立つことを選択したのでは?」という別の一念が脳裏に現れました。 私はすぐに分かりました。それから、私は師父と会える機会の回数をあまり気にしなくなりました。ずいぶんと年数が経ったのち、私がさらに分かったのは、修煉者の人生は偶然ではなく、私達の生活の各方面がまさに法を正す師に手伝い、衆生を救う最前線なのです。

   常駐医師の職場を離れる時、ある先生は私に「どこに行っても主人公の精神を忘れず、会社のことを自分自身のこととして思うように」と教えてくれました。私はこの点をしっかり覚えました。半年後、その先生は私を研修生としてある有名な癌センターに紹介しました。そこで、私は半年間いくつかの課題を研究して、4編の文章を出しました。それからの人生の中で私は自然に任せ、手掛けるすべてのことを心を込めて行い、同僚達も私の働く情熱と集中を感じてくれました。

   会社の中で、私は良い条件や上司からの支持がなく、基礎からやり出して、日々の臨床の仕事から研究の霊感を得て、実験を行う条件がない中で最も基本的で簡単なものからやり始めました。家で私は家内と家事を分担し、会社では臨床、科学研究、教育、管理を同時に進め、当地の神韻の協調に加わり、政府に真相を伝え、各方面のすべき事をやっていました。奇跡も次々と現れました。私は次々と専門証書を手に入れ、社内でもっとも多くの専門証書を有する医者になり、国際学術委員会から加入の招聘を受け、専門の経歴が浅いにもかかわらず、全国的な医学組織から全国の常駐医師用のマニュアルの編成員として呼ばれ、所属する業界の協会から年度グランプリ賞に類似する賞を授与され、毎年3~4編の学術論文を発表することができました……絶え間なかったのです。

 これらは私個人がやり遂げたものではなく、すべては師父から授かったものです。私がやったのは、これらのことに対して正しい態度を取ったことだけでした。しかし、修煉は留まることがなく、もっと大きな責任が私を待っていて、もっと努力しなければならないと感じていました。たとえば、真相を伝える質を高めること、さらに上流社会に真相を伝えること、そして自分の領域で新しい仕事を切り開くことなどです。法を正すことに際し、師父はご自身のお考え、按排、計画があると思います。社会のどの階層も救わなければならず、上流社会も含まれます。師父がおっしゃったように、各業種は私達の修煉の場所です。私が感じたのは、私が仕事を真剣に取り組む中で、衆生は私を通じて大法とつながり、彼らには救われる望みがあって、彼らも私を手伝っています。

 当時、会社の上司から「皆があなたを見ていて、誰もがあなたを管理することなく、背中を押したりせず、あなたは自ら一生懸命に仕事を取り組んでいるのを皆が見ています」と言われました。実は、それによってもたらされたメリットは非常に大きかったのです。上司を含む同僚は皆、私が一生懸命に神韻を宣伝し、真相伝えに多くの時間を掛けていることを知っていましたが、私の仕事ぶりを見て、何も口に出しませんでした。半数以上の同僚が神韻を観ました。私は絶えず所属する病院系統内で神韻を紹介し、徐々に理解を得るようになり、email/eblastを送ることができ、院内でのチケット販売の許可ももらいました。私は病院の院長、医学院の院長、大学の学長にも神韻を勧めました。ある年、大学の学長からメールが送られてきて、彼女は神韻に関するとても良い評価を耳にしたそうです。

 衆生の正しい念は彼らの将来にプラスの影響をもたらします。私の理解は、私たちが家庭と仕事を諦めた時、実は、家庭と仕事を通じて私たちと縁のある衆生を放棄したことになります。私たちは身近のもっとも縁のある衆生を見捨ててはいけません。しかも、あなたが彼らを見放せば、絶望する衆生はあなたに妨害をもたらします。その表れとして魔難が絶えずやってくるのです。大法弟子の言動はもっとも大きく、もっとも力強く、もっとも長続きする真相材料です。さきほど交流した通り、長年、同僚たちは私を見ていて、友人も見ていました。数年後、常駐医師を務めた時期の同僚は私にこう言いました。「当時、あなたはすごく大きなストレスを抱えていました。しかし、あなたは常に微笑んでいて、大変感心しました」。また多くの友人は大法に対して理解を示していませんが、私と妻を通してプラスのイメージを持ち始めました。衆生も私が彼らのために努力したり、犠牲を顧みないことを感じていて、私を手伝ったりしてくれます。ですので、道は行けば行くほど順調になってきました。その後、私は転職し、大きな挑戦が伴いました。もしかして、新しい領域の衆生が私からの救いを待ち望んでいるかもしれないと思い、受け入れました。新しい仕事についてからも、すべてが比較的に順調でした。

 多くの同修は「よく行っていきたいですが、すべてのことを同時によく行っていく時間と精力がない」と言います。私が思うには、時間と精力がないのではなく、それを重視したかどうか、家庭と仕事を正法修煉の一部として考えたかどうかが問題です。大法の修煉は最優先で、法を正す師に手伝い、衆生を救うことも最優先であることはもちろんですが、私は家庭と仕事を正法修煉の一部として重要視しています。これらは矛盾しません。

 また、問題の解決方法は問題の外にあることが私の一つの体得です。たとえば、時には各方面の事は一気に同時にやってきますが、私はそのうちの一部を諦めて他の方面に集中する方法を取らず、どうすればそのすべてを成し遂げることができるかを考えました。時には、真相伝えや神韻を宣伝する中でトラブルに遭い、常人の仕事にも問題が発生し、家庭にも解決しなければならないことがあり、私はいい加減に常人の仕事をさっと片付けようとせず、一つ一つをじっくり行っていくうちに、かえって他の方面の問題は自ら解決しました。しかも、このようなことはよくありました。

 さまざまな事が同時にやってくる時、確かにとても忙しく、明け方まで休めないことがあります。その時、体にエネルギーを強く感じ、ほかほかして、まったく眠気を感じませんでした。すべてを片付けた後、私はぐっすり寝てしまいます。本当に心が法に符合するとき、半分の労力で倍の成果が現れ、どの方面にも支障をきたしませんでした。

 もう一つの方面があります。一部の同修は極端に走り、周囲の常人は彼らの身から修煉者の素晴らしさを感じ取ることができませんでした。なぜ常人の理解できる範囲で大法の素晴らしさを見せることをせず、どうしても彼らを理解させることができず、彼らが法を得ることに障害を作ってしまうでしょうか? 大法弟子が周囲に見せるべきなのは「超常」であり、「異常」ではありません。常人のできないことを私達がやり遂げて、初めて常人は感心します。私は以下のように理解しています。大法はこんなに弘大、博大、円融かつ厳粛ですが、『轉法輪』においては「道理が簡単で、言葉も分かり易い」[1]、簡単で理解しやすく、師父が法を伝えられる前の旧宇宙の神々が推測するような難しく分かりにくいものではありません。同じく、私たちはいくら高くまで修煉しても、大法を修煉する者として、高く修めれば修めるほど、常人の中では穏やかで余裕があって、正直で心が優しく、利己的ではなく、誰もが付き合いたい対象になるはずで、高く修めれば修めるほど常人に奇怪に思われ、極端に走ってしまうことはありえません。

 さきほど言及しましたが、同修たちはよく旧勢力の按排か、もしくは師父の按排かと議論します。とても簡単です。旧勢力は大法を知らず、師父が私たちに大法を伝えられました。大法に則って行えば師父の按排であり、大法から乖離すれば旧勢力の按排になります。この方面の師父の説法を一緒に復習してみましょう。

 師父はこのようにおっしゃっています。「宇宙の大法(佛法)は最も高い次元から最も低い次元まで貫通しており、完全で整っているもので、分かっていなければならないことは常人社会もその次元の法によって構成されています! 誰もが大法を学んで、誰もが社会の仕事をしなくなれば、常人社会は存在しなくなり、この次元の法は存在しなくなります。常人社会も佛法の最も低い次元での体現であって、佛法のこの次元における生命と物質の存在形式でもあるのです」[2]

 「在席の皆さんですが、あなたが学生であっても、在職して仕事のある人であっても、常人社会で演じている役を放ってはいけません。必ず行うべき全てをしっかり行うべきであり、同時に皆さんの法を実証し真相を伝えることに便利な条件をもたらします」[3]

 「皆さんが今日行った全ては未来が参照する実践です。つまり、常人の仕事をしながら修煉することです。皆さんが極端に走れば、この道を破壊してしまいます。ですから、極端に走ってはいけません。正々堂々と社会で自分が行うべきことを行ってから、修煉すれば、修煉者として到達すべき基準、圓満成就の基準に十分達することができます。なぜならば、未来の人々の道はこのようだからです」[3]

 円融および厳粛さと相反するのは極端に走ることです。大法弟子が極端に走っている現象は比較的に普遍的にみられます。なぜ極端に走っているのでしょうか?  大多数の場合は、事を上手く持って行こうという善意の下だと思いますが、人心による執着が混じり、好意と執着心が混じっています。自分は気づかないかも知れませんが、傍観者は一目瞭然です。たとえば、時間に対する執着があれば、「もうすぐ終わるのだから、またこれらの生活や仕事のことをやっていて何になる?」と自然に思ってしまいます。甚だしきに至っては、「明日は明日の風が吹く」と思い、茶屋で時間をだらだら過ごすように、大法のプロジェクトの中で歳月が流れていくのを待ちます。執着心を取り除くことを圓滿成就に通じる道だと思わず、プロジェクト自体が圓滿への道だと思ってしまいます。

 個人的に思うには、極端に走ってしまう原因の一つは、困難に直面したくなく、挑戦に直面したくなく、近道を探したいのです。修煉の過程で深く体得したのは、困難や挑戦が現れた時、真っ向から向き合うべきです。師父はおっしゃっています。「困難にぶつかったらそれを避けて通ろうとしてはいけません」[4] 。困難と挑戦に直面したくなければ、近道を探す以外、避けるのも一つの方法です。そうなれば、修煉やプロジェクト、迫害などは、家庭のトラブルや仕事上の困難を避ける堂々たる口実になってしまいます。実際のところ、トラブルは正に向上に向かう道のりであり、新宇宙での自分の世界の創立とも対応しています。対立から避け、責任から避け、向上からも避けてしまうのです。この道を最後まで歩んでいても、自分の新しい世界は恐らく不完全なものになっています。

 社会は私達に対して誤解がありますが、邪悪による誹謗中傷を除いて、私たち自身もよくできていない部分があるからではありませんか? 師父は何度もこの問題について言及され、私自身もシンガポールでの説法を学ぶ際はとても強い印象が残りました。まして、大法の名声を守るのはすべての大法弟子の責任です。今日の世界では、人々は極端主義を公害、共通の敵と称しています。

 今の私は、師父が『轉法輪』の中で話されている「邪法を練る」の問題について、もっと多くの認識を得ました。師父の説法はとても明確です。正法修煉の中でも、自覚がないまま邪法を練ってしまうことがあります。師父は 「心を用いて當らざれば即ち有為 専ら善事を行うもやはり是の為にす」[5]とおっしゃっています。表面上、私達の真相伝えはよい事ですが、極端に走ってはやはり駄目です。今の人々は極端主義に対してとても敏感で、修煉者が極端に走る行為を行えば大法の名声を大きく破壊してしまい、衆生が法を得ることに大きな妨げとなってしまいます。

 個人的に思うには、法を正す師に手伝い、衆生を救う事は、仕事をきちんとこなし、家庭の中で職責を果たすことと対立しません。むしろ、家庭や仕事、生活のすべての方面は衆生を救う最前線です。最前線は街頭や観光名所、真相電話をかけることだけに限りません。私達が日々接触する衆生は私達と縁があって、師父と約束がある生命です。彼らとの接触、彼らとの付き合いはすべて、真相を伝えることではありませんか? しかも、この種の真相伝えは容易ではなく、長期に渡り、時々刻々衆生の観察の下で、自分の言動を持って真相を伝える一種の正法修煉形式で、真に社会の各階層、隅々に真相を伝える正法修煉形式です。ある日、神仏が大いに現れて大法の弘大、円融、厳粛を世人に見せるのではなく、人間社会にいる私たち大法弟子がやり遂げるべきことです。

 今年、師父が法を伝えられて25週年になります。私も『轉法輪』を21年近く学んできました。師父が法を伝えられたときから、私は師父のお導きを受けていました。最初の個人修煉から迫害後の真相伝えまで、街頭での真相のビラ配りから、政府やメディアに真相を伝え、神韻を広めるまで、今まで修煉してきて、絶え間なく大法の弘大、円融、厳粛を体得してきました。長く修煉すればするほど、ますます大法の弘大、円融、厳粛を体得し、ますます極端に走ることの真相伝え、衆生救いにもたらす危害を実感してしまいます。師父が私たちに洪大に与えて下されば下さるほど、この考えがもっと強烈になります。師父について世に来ることは容易ではなく、これが空前絶後のことです。どれくらいの時間をかけてても、私たちは必ず誓約を果たさなければなりません。

 以上は私の交流です。今後、法を正す師に手伝い、誓約を果たす中でさらによりよく実行し、できるだけ遺憾を残さないようにしたいと思います。適切でない部分があれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 師父に感謝します!

 同修の皆さんに感謝します!

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二◯一三年大ニューヨーク地区法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「修煉と仕事」
 [3] 李洪志師父の著作:『二◯◯三年元宵節での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二◯◯二年ワシントンDC法会での説法」
 [5] 李洪志師父の詩:『洪吟』「無為」

 (2017年ニューヨーク法会での発言原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/5/20/348451.html)
 
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