同修が留置場で不当に拘禁されていることについて
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2017年8月8日】ある偶然の機会に、弁護士から、地元のある留置場には2千人ほどの人が拘禁されており、その中の4分の1の500人が女性、その中で不当に拘禁されている大法弟子は約80人、中に女性が50人ほどいると聞きました。弁護士(すでに大法の真相を知っている)は「留置場にこれだけ罪のない良い人が拘禁されているとは思わなかった」とため息をつきました。

 それを聞いた私は、何とも言えない気分になりました。留置場に、これほど罪のない人が拘禁されていることは、中国共産党の邪悪が裏付けられる一方、留置場がこのようにしたい放題で同修を拘禁できるのは、私達自身に問題があるのではないかと思いました。留置場は、どうしてこれだけ多くの大法弟子を拘禁できるのでしょうか?

 同修達が全体的に協力して発正念をして、地元の洗脳班を解体したことを思い出すと、当時、同修達がどれほど発正念を重視していただろうかと思いました。最近、自分も発正念に対して、随分緩んできていると実感しています。少し前に、明慧ネットを見ていた時、なぜか2016年に発表された「発正念を強化しよう」の知らせをクリックしてしまいました。師父は私に発正念を強めるようにと気付かせてくださったのです。

 同時に、同修が迫害を受けていることについて自分はどう対応しているかについても反省しました。師父は迫害を認めず、旧勢力の存在すら認めないとおっしゃいました。同修が迫害された後、周りの多くの同修は迫害された同修の問題点を指摘し、「これらの問題があるから迫害を招いた」と思っているようでした。このような考えの中から、迫害を認めるニュアンスや、同修に対する責めや愚痴を微かに感じました。修煉者にとって、修煉の中に問題があるのは修煉の一部に過ぎず、法を学ぶことや内に向けて探すことによってそれを正す事ができるので、それは迫害される理由にならないはずです。

 師父は「返本帰真することこそ、人間としての本当の目的です。したがって、ある人が修煉しようと思うと、佛性が現われて来たと認められます。この一念こそ最も貴重なものです。なぜならその人が返本帰真を願い、常人という次元から抜け出そうとしているからです」。「皆さんもお聞きになったことがあるだろうと思いますが、佛教には、『佛性がひとたび現われると、十方世界を震わす』という言葉があります。覚者がそのような人を見ればひとしく救いの手を差し伸べ、無条件に助けてあげようとします。佛家では、人を済度するにあたって、条件を言わず、代償を求めず、無条件に助けるということなので、われわれも学習者の皆さんに多くのことをしてあげることができるのです」[1]と説かれました。

 それなら、私達はなぜ同修を責めたり愚痴ったりするのでしょうか。同修が修煉を選択すれば、師父は彼を無条件で助けてくださるので、私達が同修を責めたり愚痴ったりするれば、私達は師父が認められないことをやってしまうことになるのではないでしょうか。根本的に迫害を否定するその一念は十分だと言えるでしょうか?

 同修たちが迫害を受けた同修の問題を分析しているのを聞いた時、私は同修の問題点をそのまま受け止めるか、それとも同修の問題を自分の鏡として、内に向けて探し、自分にも、同修と同じような問題があるのではないか? そして、同修の振る舞いを見せられたのは、師父が自分のなかに問題を探すようにと気付かせて下さっていると意識しているかどうか? 考えなければなりません。

 そして、同修の振る舞いはただ私に見せているだけで、同修には本当にそのような問題はないかもしれないと認識できるかどうか? あるいは、同修の問題は私によって促されたのではないか? 私の依頼心は同修を傷つけたのではないか? 私の問題を解決するため、法を学ぶ時間を潰してしまって、それによって同修に害を与えたのではないか? 自分の便宜しか考えていないため、同修に困難をもたらしたのではないか? 同修が迫害されたことには、自分にも責任があるのではないか、と考えなければなりません。

 同修が迫害された後、それを自分のことのように考えていたのか? 自分は迫害を制止するため、同修を救出するために力を尽くしたのか? そのため、何をしたのかを考えなければなりません。

 他に、同修が迫害されることは、事実上、衆生が迫害される事にもなります。なぜなら、多くの警察、検察、裁判所の人々は本意か、不本意かに関係なく、彼らは同修を迫害する案件に巻き込まれてしまうのです。そのため、私達はより多くの努力を払って彼らに真相を伝え、迫害に参与しないようと説得しなければならなくなります。一方、世間の人にとっては、彼らは大法弟子が迫害されることを見て、恐れる心や責める気持ちが生まれ、それによって真相を聞きたがらなくなるかもしれません。私は自ら迫害を受けた時、家族や友人達は大きな圧力を受け、それによって彼らの心の中で生まれた観念を取り除くには、相当な努力を払った苦い経験がありました。うまく行っていない時、本当に一瞬で彼らをとても遠く押し出してしまう可能性もありました。

 もちろん、師父は相手の策を逆手に取るとの法も説かれました。しかし、迫害が起きることは。結局衆生の損失となり、同時に、自分の修煉の道に余計な魔難をもたらしてしまうことにもなるのです。

 以上は個人の次元で悟ったことです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/7/20/351354.html)
 
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