師父の按排は「最善」のはずです
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年3月3日】正法がいつ終わるのかという問題について、私たちはまったく考える必要がありません。なぜなら、個人あるいは全体のどの面においても、師父は必ずもっとも良い按排をされるはずだからです。

 一、人心を持って「正法の時間の問題」を推量してはならない

 邪悪による迫害の中で、さまざまな圧力に耐えている私たちはついつい色んな考えを起こし、色んな行動を取ってしまうものです。たとえば、内心で正法の終わりを期待したり、終わりに関する予言を好んで読んだり、ひいては災害の出現まで願い、それと同時に心の奥深い所で不理解の念や不満に思う心などを抱いてしまうのです。実は、これらのすべては人心を持って正法の時間の問題を推量しているのです。

 二、大法弟子は「法に基づいて」 物事を判断すべき

 1、「ですから人間は済度しにくいものだと言うのです。彼にあれほど多くのことをしてあげたのに、悟らないだけでなく、逆にあんなことを言うのです」[1]と、師父は説法の中で脳血栓の例を挙げられた際にこのようにおっしゃいました。実は、正法の時間が延長されていることにおいて、師父は弟子と衆生のために想像がつかないほどの苦痛に耐え、多くの犠牲を払ってこられました。それにもかかわらず、一部の修煉者は理解を示さず、ひいては不平不満までを口にしています。このような心理状態は、説法の中で言及されている脳血栓の症状が現れた人と同じではありませんか? このような悟性の低い人になってはいけません。

 2、「もちろん、それを知らない人もいて、師が求めてはいけない、求めてはいけないと注意しているにもかかわらず、信じようとせず、無我夢中に追求しますので、結局のところ逆効果になってしまうのです」[1]。私たちが正法の終わりについてよく言及し、時間があまりないとよく口にするとき、実はそれが終わりを追求している心の現れです。その膨らむ期待が実現されず、何回も虚しく消えていく中で、私たち自身、そして世人にも度々の妨害をもたらしました。

 3、「常人という次元、立場、思想境地からでは、本当のことを理解できるはずがありません」[1]。 「時間があまりない」のを人間の時間的概念で理解せず、別の角度から理解してみれば、それが案外長い時間かもしれません。なぜなら、異なる次元や空間、角度に立てば、時間も異なるようにみえるからです。

 また、「時間があまりない」というのは、私たちに残された時間は、私たちが担っている責任を完成するために与えられている時間に対して、あまり多くないという捉え方もあります。精進しなければ、その時間が足らず、責任を果たすことができなくなります。この角度から時間を見れば、そこには大きな重みと内包があります。

 さらに別の角度からみれば、毎日が結末とも言えます。個人的な理解ですが、日々推し進められている正法の最後の時間の中で、残るべきものは残り、淘汰されるべきものは淘汰されていき、これが日々そして時々刻々に進行されているため、その決定的な瞬間瞬間は残ったもの、または淘汰されたものにとっては結末ではないでしょうか。残るべきものは残り、済度できないものは淘汰されてしまうでしょう! この最後の時間において、大法弟子は衆生およびそれぞれが代表する生命たちの救われる唯一の希望であるため、衆生たちの立場に立って毎日を結末として重く受け止め、毎日しっかり行なっていくべきです! 

 三、師父の按排は「最善」のはずです

 修煉者がいつも正法の終わりを期待し、甚しきに至っては良くない考えまで抱くことは、すでに法に対する不敬です。これらの要素を必ず取り除かなければなりません。そうしなければ、私たちの修煉および衆生を救うことが深刻な妨害を受けることになります。

 師父の正法の時間における按排自体が法です。それがきっともっとも良いもので、一切の生命の認識と智慧を超越しているはずです。一切の生命はそれに対して自分の認識を表現すべきではなく、喜びと信心を持って受け入れるべきです。

 「この瞬間は千金、万金に値します」[2]。私たちは億万年の魔難と苦痛に耐えてやっとこの最後の一刻を迎えたのに、なぜ時間を惜しんでフルに利用せず、却ってそれが早く過ぎ去ることを望むのでしょうか!

 以上は個人的な認識に過ぎず、妥当でない部分があればご指摘をお願いします。

 注:
 [1]  李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2]  李洪志師父の著作:『各地での説法七』 「シカゴ市法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/2/27/362230.html)
 
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