神韻を見て 修煉の在り方を考えてみる
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文╱中国の大法弟子

 明慧日本2019年4月4日】今年もネットで2019年神韻公演を鑑賞しました。再生中に映像が途切れ途切れになって、動画はよく止まったりしました。そのため、神韻のダンサーたちの表情や気持ち、そして動きなどは止まった状態ではっきりと見ることができました。しかし、画面がどのように止まっても、ダンサーたちは同じく美しく、慈悲で穏やかな表情でした。ほとんどの娯楽番組の場合、その後、スローモーションビデオで再生をしたり、あるいは画面を止めたりすると、撮影された人達の疲れた表情や失敗した動き等が必ず映像に残ります。

 しかし、神韻公演の映像はどこで止まっていても、画面が完璧で美しいものでした。そこからも神韻芸術家たちの普段の訓練の厳しさや、払われた多大な努力、身についたしっかりとした技が伺われます。だからこそ、神韻公演は世界の人々にこれだけの完璧なパフォーマンスを見せることができ、法を正す中で人々を救い済度することに、これだけ大きな役割を果たすことが出来たのでしょう。

 そこから、自分の普段の修煉の中で、「怠ける心」や「安逸心」が見えてきました。そして、プロジェクトの中で、人を救う時になかなか精進できない自分の姿も浮き彫りになりました。

 神韻のダンサーは誰でもが素晴らしい技を持っているアーティストです。しかし、彼らはお互いに協力し、見事な一体感で、素晴らしい完璧な舞台を私たちに見せてくれました。そこからも自分が修煉の中で取り除かなければならない「顕示心」と「独りよがりな心」に気づかせてくれました。

 師父は私たちに「不足を明らかにして再び精進す」[1] と説かれました。これからも、同修たちと励まし合いながら、いつでもどこでも正念を持ち、着実に修め、新たな年に向かってしっかりと三つのことを行い、来た時の誓約を実現し、大法弟子の使命を果たして行きたいと思いました。

 合掌します!

 注:
 [1]李洪志師父の詩:『洪吟二』「理智醒覚」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/2/17/382847.html)
 
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