修めて「私」を取り除く
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文/中国の大法弟子

 明慧日本2019年8月8日】 

 『轉法輪』を勉強しての心得

 今日『轉法輪』の第八講の「煉功するその人が功を得る」の最後の「このわれわれの法門は最も便利な法門であり、しかも宇宙の特性に従って直接修煉するので、人心を真っ直ぐに指し、最も速い近道で修煉できます」を読んだ時、突然一つの法理を悟りました。目標が明確であって、常に自分が修煉者とすれば、修煉は簡単になると悟りました。「観念転ず 腐敗物は滅し光明が顕れる」[1]  つまり、自分の心をしっかり修めて執着を放棄でき、各欲望に無関心で放下できるよう、謙遜して、さらに私(し)を放下することもできるようにしなければいけません。ここで私の僅かな体験と悟りを皆さんと交流します。不適切なところがあれば、ぜひ慈悲なるご指摘をお願いします。

 1、  大法の修煉は私(し)を取り除く過程

 修煉によって多くの人心を取り除かなければいけません。嫉妬心、闘争心、歓喜心、顕示心、利己心、色欲心、恐れる心、僥倖心※1、頼る心、懐疑心、怨恨心、安逸心、好き嫌い、同修が気に食わない心、自分を実証する心、心のバランスが取れないなどなど、これらの心が「我」から、「私」から離れません。私心によって生命の次元が落ち、最後は常人社会まで落ちて、三界を輪廻し、上にはあがれないということが大法によって分かりました。今世で大法に出会って、修煉を通して天上に戻れることは、天地が開かれて以来初めてのことです。私たちはこの僅かな正法修煉の時間を大切にして、修めることにより「我」、「私」を取り除くべきです。「放下人心恶念天国只收善良」[2]※2 、「私」があったからこそ落ちて来たのであり、戻るためには、この「私」を除去すべきです。大法は直接人心を指し、つまり、「私」を指しており、「私」の表現は自己中心のことです。旧宇宙の生命は自己中心であるがために、「成住壊滅」の宿命から逃げられません。今、旧宇宙は最後の滅のところに到達しており、慈悲なる偉大な師父は、初めて宇宙の大法を衆生に伝え、そして、衆生の魂を呼び醒ましました。

 「私」の主な表現は物事を考える時、いつも自分の立場で考えて、自分の利益を守っており、他人の立場で考えていない」と悟りました。「私」の属性により、生命は自分を変えたくなく、他人に変わってほしいと思っており、すべて「私」を中心に考えています。

 師父は「私心の問題についてですが、先ほど私が説いた道理を聞いてみな拍手をして、喜んでいました。未来の宇宙が不滅だとお話しましたが、皆さんはこれを聞いて喜んでいました。それはなぜなのか、皆さんはご存知でしょうか? 自分のために図らぬ者は、天地の罰を受けると言う人がいます。この言葉を座右の銘としている人もいます。実は皆さんはご存知ではありませんが、『私』という心が非常に高い次元まで貫いています。『私は何かをしている』、『私は何かをしたい』、『私は何かがほしい私は修煉している私は成佛したい私は何かの目標に達したいなど、昔の修煉者は言っていましたが、実はみなの心から抜け出すことができませんでした。しかし、皆さんに到達してほしいのは、真の純正、真の無私であり、本当の正法正覚の圓満成就であり、それになってはじめて永遠の不滅に到達することができます。ですから、皆さんに教えますが、どんなことをしても、まず他人に配慮しなければなりません」[3] 、「利己は今までの宇宙の根本的な属性であり、成住壊滅、生老病死もこの属性によって必然的になったのです。将来の法は圓容であり、公のためのものです。宇宙の根本的な属性の変化によって、宇宙の過程、生命の特徴にも根本的な変化が生じました」[4] と説かれました。

 すべての人心は「私」から離れません。古人は、「無私の心があれば世界は広い」と説かれました。つまり、昔の人は、「人に『私』がなければ、心は広く、道徳も高く、他人に善良で、怨んだり悔んだりもしない」という認識があります。今、多くの大法弟子は、「私」がなくなれば、宇宙の大法に溶け込むことができ、大法の無限な知恵と繋がり、大法の能力が備わることを認識しました。「私」に伴って、闘争心、嫉妬心、歓喜心、顕示心、利己心などがあります。「私」を取り除けば、自分の修煉が良くなるだけでなく、全体との協調も良くなります。

 2、「私」の表現は自己中心

 「私」の表現はいろいろあります。そして、他の執着心に生存の空間を提供しています。法を実証する道、衆生を救い済度する道で、一部の同修は「私」のせいで、しっかり行なっておらず、大法から得たいとだけ考えています。

 例えば、衆生を救い済度することや、江沢民告訴など、多くの同修はやるべきことを知っていますが、「私」を突破できない同修は、恐れる心があって行なえていません。

 師父は、「末后都在等创世主救起 坏灭前已传救人的法理 可是人们追求是名利 奋斗一生的追求带不走 来去只有你」[5]※3 と説かれました。修煉の中で私たちは人生の目的を理解し、すべての出会ったことに正念で対処していけば、「私」が自然に解体していきます。

 3、「私」を放下し、「法」を第一とする

 ある日、私はある同修と一緒に買い物をしていた時に店に入ると、同修は先に挨拶していたところ、私は挨拶を待たずに、すぐその店員さんに法輪功真相を伝え、三退を勧めました。店から出ると、私は同修と、誰が誰に真相を伝えるべきかについて、喧嘩をしました。店員さんに真相を伝える時、互いに協力せずに、自分だけで真相を伝えたいという考えは、「私」が基点でした。

 これを認識した後、私は「これは本当のわたしではなく、取り除くべきものです」と考えて、自分に対して、それを発正念で滅していました。そして何の執着心によって、この一念が生じたのかと、根本的な要素を探して、その根本的な要素も滅しました。

 以前の私は、物事を行なうことが精進、修煉だと思いました。今は、心を修めることが一番大事であることが分かりました。「心性の高さは功の高さ」[6]   心を修めることは、観念と基点が問題だと思います。観念を正し、基点を正せば、すべてが変わります。旧宇宙のすべては、「私」の基点に立っています。常人も自己を中心にしており、すべては「私」のためです。しかし、大法が創り上げた生命は、他人のためという基点に立たなければなりません。「私」を放下して、「法」を第一にして、衆生済度を重んじましょう!!

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「新しく生ず」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟五』「什么是信仰」※4
 [3] 李洪志師父の経文:『スイス法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」
 [5] 李洪志師父の詩:『洪吟五』「为何来这里」※5
 [6] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 ※1 僥倖心(ぎょうこうしん・思いがけない幸運を当てにする心)
 
※2 大体の意味は、「人心と悪念を放下し、天国には善良な生命しか入れない」
 ※3 大体の意味は、「世界の終わりに皆が創世主の救済を待っている。滅びる前に済度できる法がすでに世に伝わっているのに、人々は名利のみを追求している。生死するたび、一生に掛けて追い求めた物が持っていけない」
 ※4 「信仰は何ですか」
 ※5 「何故ここへ来る」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/7/27/390659.html)
 
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