清浄心に対する悟り
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文/重慶の大法弟子

 【明慧日本2019年10月10日】

 師父はこうおっしゃいました。「入静できない根本的な原因は、方法にあるわけではありません。何か奥の手があるわけではなく、その人の考えや心が清浄でないからにほかなりません。常人社会の中で、人と人とのトラブル、個人の利益や七情六欲、さまざまな欲望への執着のために、人と争ったり闘ったりする、こういうことを捨てられなければ、こういうことに対して淡泊になれなければ、入静しようと思うなど、とんでもないことです。『そんなことは信じない。わたしはあれこれ考えたりせずに、入静しなければならない』と、練功する時に自分に言い聞かす人がいますが、そう言い終わらないうちに、またもやあれこれ湧いてくるのです。心が清浄でないので、入静できないのです」[1]

 私は「清浄心」に関する師父の説法を何回も繰り返して読みました。普段修煉する際、「清浄心」に関する説法に対して特に深い印象はありませんでした。深入りしたくなく心に入らなかったので、法を学びましたが何も得られませんでした。最近、上記の説法に対して新しい悟りがあり、同修の皆さんと交流したいと思います。そして、今後の修煉の道をしっかり歩むように自分にも促したいのです。

 一、心を浄めることは三つのことをよく行う保障である

 以前、学法する時に長い間読み続けていくうちに、「明日は出かけないといけないから、どの服をこのズボンと合わせればよいかとか、最近、太ったのでスカートがはけなくなった、夜は少なめに食べるようにしようとか、今日のお昼の料理はまずかった」などと思い、集中力が散っていました。頭は常人の欲望や執着でいっぱいなのに、どうして修煉者だといえましょうか。目では『轉法輪』を見ており、口では声を出して読んでいましたが、心の中では常人のことを考えており、読んでいるうちに行を飛ばしたり、字を漏らしたり、つけ加えたりして読んでいました。往々にして一講を勉強したのに、何を学んだのかさっぱり分かりませんでした。言うまでもなく、法の内包は少しも現れませんでした。このような態度や不浄な心を持っていては、大法の内包がどうして現れるでしょうか!!

 大方はこのような時になってやっと「なぜ、また集中力が散ってしまったのか?」と自分でも気づき、主意識がはっきりしてきます。自分が間違ったということが分かると、「それらの人心、雑念は私ではない、要らない。私は心を清め、気持ちを静めて学法すべきだ、他のものが妨げるのを許さない。私は煉功者、修煉者であるのにどうして常人のものに執着するのだろうか? 常人の中のものに執着するのは何の価値もないことなのに」と自分に言い聞かせます。師父は次のように教えてくださいました。「常人社会に来ている間は、ちょうどホテルに泊まるようなもので、しばらく滞在したら、たちまち去っていくと言われます」[1] 

 我々修煉者はより高い次元へ修煉するために、常人のものを求めてはならず、執着したり、さらにその執着心を放下せねばなりません。学法は厳粛なことであり、師と法を敬うべきです。純粋で清らかな心を持ってすべての妨害を排除し、常人の心や雑念を放下して、初めてこの宇宙大法を読むにふさわしくなり、大法の内包も現れてきます。心が法に集中して主意識が強くなると、それらの常人の心や雑念は自ずとなくなります。そのとき自分が強いエネルギーに包まれたように感じられ、身体も暖かくなり、心は純粋で清らかになり、何も考えず、学法以外の常人のことは何も思い浮かばなくなります。ときには法を学んでいるうちに大法の法理が急に現れてきます。学んでいくうちに大法の要求で自分を照らし合わせてみるようになり、いろいろな執着心を見つけることができます。普段は察知しにくい非常に良くない心でさえ、見つけ出すことができ、すぐそれを捨て去ることができます。学んでいくうちにある瞬間、大法を得た幸せを感じられます。あるいは自分が間違ったことをした時の後悔や大法弟子としての使命感、緊迫感を感じます。静かに涙を流したり、会心の笑みを浮かべたりして、静かに法を読み続けます。読めば読むほど読みたくなり、読めば読むほど頭がはっきりしてきます。読み続けるうちにそれらの悪いものが一つずつ解体されるのが感じられます。世の騒々しさや常人の中の名、利、情は私と何の関わりがあるだろうか。純粋で清らかな心で学法してこそ、法に溶け込むことができ、身体も変化して生命が昇華していきます。

 煉功も同じく、他のことを考えず純粋で清らかで雑念がない状態でやるべきです!! 煉功の音楽が流れると人はすぐ煉功状態に入り、身体は気機に従って五通りの功法を一気に煉ります。終わったら、心身共にこの上ない軽やかさと喜びを感じます。世の中のトラブルや争い、体の疲れや痛みが全部なくなります。特に第五式の功法を煉る時、そこに座って足を組んで、師父の口訣が聞こえてきたら心身ともに、「自分が卵の殻の中に座るように美妙で、非常に気持ちがいい感覚が現われ」[2] る状態に入り、別の空間に入ったように感じられます。人間世界のどこにこのような殊勝で美妙なことがあるでしょうか!

 しかし、風紀が日増しに乱れ、道徳が急激に低下している世に身をおくと様々なものに誘惑されます。QQ(インスタントメッセンジャーソフトの一種)、ウィーチャットなども同じように修煉者の心をひきつけています。修煉者だからそれらに動じることなく、汚染されないためには、大法の指導と師父の見守りがなくてはならず、さらに強靭な意志を持たなければ確かに難しいのです。だから煉功する時、往々にして「清浄無為」[3] に達することができません。心が清らかではなく、静かでなかったら、煉功時に必要な状態に達することができないのは当たり前であり、ひいては、無意識に邪法を練ることすらあるため、そのような時に、どうして自分の体が演化されていると言えるでしょうか!

 ある日、私が第二式の功法を煉っている時、頭の中が海がひっくりかえったように雑念ばかりで、あれこれと考えて、抑えようとしても抑えられませんでした。そして師父の「頭上で法輪を抱える」号令に気づかなくなって、「頭の両側で法輪を抱える」と聞いていても、自分はまだ腹部の前で法輪を抱える動作をやっていることに気づきました。

 第五式の功法を煉るときも同じように、足を組んで座っていながら心の中では雑念ばかり浮かんできました。「あんなに優しくしてあげたのに、彼女は私に感謝しないばかりか、逆に私に対してあんな態度をとっている。また誰それが私から十数万元借りたけれど、今になっても返さないのはなぜだろうか? どうしたらお金を返してもらえるだろうか? 今日会った男性は老けていた。孫の咳はなぜ治らないのだろうか?」などと色々と浮かんできましたが、まだ他にもたくさんあります。これが煉功だと言えるでしょうか? このように浮ついた心を持って煉功したら、いいものを煉られるでしょうか? 煉功者としてふさわしいのでしょうか? 本当に師父にお会いする面目がありませんでした。心がこのように「清浄」でないのに、どうして入静した状態で煉功できますか?

 発正念する時や真相を伝える時も同じで、心に雑念がなく、怖れる心もなく、強大な正念をもっていれば、自分の空間場も純正になります。心が法でいっぱいであれば、どんなことも私を妨害することができませんし、でたらめな考えもなく、発正念する時も眠くならず手も倒れません。この状態に達したら邪悪はきっと怖くなって、自ずと解体され、真相を伝える時の効果もよくなり、世の人々が救われるようになります。そうでなければ人を救うことができないばかりか、迫害を招きかねません。

 二、内に向かって探すことは、心身を浄化する最も有効な方法である

 どうすれば清静無為で、心身とも清らかな状態になるでしょうか? 私は三つのことを行なう時、多くの場合心を浄めて、静かな状態になれません。これも人為的にやりたいと思っただけで出来るようなものではありません。三つのことをし始めると、すぐに良くない考えや観念が絶えず浮かんでくるので、本当に苦しく感じました。このような現象が現れた時、自分が修煉者であることを忘れる時すらあり、常人の方法で解決しようとしてもダメでした。急に自分が修煉者だと想い出し、師父がおっしゃったことを思い出します。「煉功の時にあれこれと妨害が現われてきた場合、まず自分自身から原因を捜し、まだ何か捨てなければならないものがあるのではないかと考えるべきです」[1] 、「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」[4]  。そして内に向けて探し、大法を用いて自分を量ります!!

 探してみると、多くの場合たくさんの執着心を見つけることができました。買い物の時に、真相が書かれている紙幣を恐る恐る思いながら代金の支払いに使い、邪悪の迫害を招くことを怖れる心が多くあります。きれいな服を着るのが好きで、アクセサリーをつけたり、知らないうちに異性を意識して再び見るとか、また、ときには夢の中で異性と一緒にいるなどは色欲心の現れです。自分が代価を支払った場合、相手にその報いがないと相手を恨んだり、あるいは、自分があれこれの事をいかにうまくやったかを喋るなども報いを望む心であり、中には恨む心や嫉妬心、自分を実証する心が混ざっています。自分の名声が損なわれたり、利益の損失を被ることを心配するのは、名利心と嫉妬心によるものです。他人に褒められることや、羨(うらや)まれることを望んでいるのは、顕示心や歓喜心です。常人と世の中の是非を議論したり、同修の間で修煉と関係ないことを話題にしたりするときがありますが、これは口を修めていない証(あかし)です。他にも親の情に執着したり、怠けたり、安逸を求めたり、トラブルを怖れたりする心などもあります。

 絶えず学法し、絶えず大法で自分を量り、自分を指導し、自分を促し、絶えず内に向けて探し、日常生活の中で自分が修煉者であることをひと時も忘れることなく、トラブルに遭遇したときは、なるべく真・善・忍の基準で自分に要求すれば、執着心が徐々に弱く薄くなり、徐々に放棄され、心性が徐々に向上することが感じ取れます。執着心が少なくなると妨害も少なくなり、様々な良くない思想観念も少なくなり、自分の空間場がより清らかになります。学法する時はよく集中でき、行を飛ばしたり、文字を付け加えたり、漏らしたりすることが滅多に現れません。さらに、法を暗記するスピードも上がります。このようになると、師父はある法理を私に見せてくださいました。また煉功する時に入静しやすくなり、眠る現象は滅多になくなり、発正念をする時にもすぐに集中でき、様々な良くない思想観念も少なくなり、眠ったり、手が倒れたりすることなどはほとんどなくなりました。

 修煉する過程で確実に体験したことは、自分が修煉者であることをひと時も忘れず、法の中に溶け込み、師父のお話に従い、師父の要求された通りに行なって、初めて心が清浄になり、「三つのこと」をよく行なうことができるということです!!

 法に符合してないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の著作:『大圓満法』「三、動作の機理」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪法解』
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/8/377544.html)
 
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