間違いを認める
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2019年12月12日】「大法弟子」という称号は、宇宙の中で偉大なもので、王冠のように輝いています。師父は「皆さんは大法弟子であり、天上で無数の生命、無量の生命が皆さんのことを羨ましく思っています」[1]  と説かれました。

 20年間の血生臭い迫害を受けて歩んで来ましたが、すべての学習者は「大法弟子」という称号に相応しいのでしょうか?

 喫煙する人、お酒を飲む人、マージャンをする人、修めているようで修めていない人、間違いを認めない人、なんでも自分が正しいと思う人、これらの人は大法弟子と言えるでしょうか? 大法弟子はこのような状態でいいのでしょうか? 大法弟子には基準があります。修煉は厳粛なものです。

 修煉者として、何事も必ず法に基づいて行なわなければならないと私は理解しています。例えば、簡単な非を認めることを、あなたはやり遂げられるでしょうか? 平然として、笑顔で同修に、家族に、同僚や友人に非を認められるでしょうか? たとえその時、激しい気持ちが抑えきれず、相手と喧嘩別れになってしまった場合でも、それは恐れることはありません。大法弟子は法に基づいて非を認め、改めれば結構です。

 古い大法弟子として、これまで私は数え切れないほどの非を認めてきました。会社で女性同僚の事を誤解して、真実が分かった後、私は彼女を探し、上司と大勢の社員の前で「○○さん、ごめんなさい。事情がよく分かりました。私の間違いでした。許して下さい」と謝りました。すると、彼女に「平気ですよ。気にしないでください。謝ってくれて私もすっきりしました」と言われました。

 宿題の答えがでたらめなことで息子に激怒し、息子の宿題ノートを破きました。息子は2週間も私を無視しました。その後、息子に「怒ったりしてお父さんが悪かった。ごめんね、謝るよ」と自分の非を認めました。息子も笑い出して「お父さん、僕、気にしていないよ」と言って、何も起きていなかったように、いつも通りになりました。

 妻にも、娘にも、同僚にも、皆に謝りました。間違いを認めることは、修煉者にとって本当に小さなことに過ぎません。

 師父は「間違いを認める勇気のある人こそ、ほかの人から認められ、敬服されます。このような人は神までも敬服するのです」[2]  と説かれました。同修と長く付き合って、時にはトラブルもありますが、毎回、その時、私は必ず相手に「○○さん、ごめんなさい。謝ります。長く一緒にやって来た仲間ですから、僕の事を大目に見てください」と謝りました。

 個人的な考え方ですが、今、師父の私達に対する要求は高すぎて、厳しすぎて、たとえ一つの良くない考え方ですら許されないものです。ある夢を見ました。夢の中で、車をバックしていた私はブレーキをいっぱいに踏んでも、車が止まりませんでした。また夢の中で、ある人は私にひどく怒り、私を指差して怒鳴りました。声が聞こえませんでしたが、しかし、修煉の厳粛さを強く感じました。また、間違ったことをして、夢の中で、200人の親族に追っかけられて殴られそうになり、私は一所懸命逃げましたが、殴られました。彼らは私を殴ってからへらへらと笑っていましたが、私はビクビクしてとても怖い思いをしました。本当に一思一念、一挙一動、すべて正しく行なわなければならないと体得しました。

 自分を大法弟子として自覚し、必ずしっかり行ないましょう! トラブルがあれば早く謝りましょう。自ら進んで謝りましょう。なぜなら、私達は師父について誇りを持って故郷に帰りたいからです。酒を飲む人、煙草を吸う人、マージャンをする人、早くそれをやめましょう。修めているようで修めていない人は早く精進しましょう。時間は限られています。修煉の時間は限られています。真の大法弟子が偉大な師父について、雄壮で美しい大空に飛び立つのを見て、自分だけが残されるようなことにならないようにしましょう!!

 注:
 [1] 李洪志師父の説法:『各地での説法十一』

 [2] 李洪志師父の説法:『ロサンゼルス市法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/25/396209.html)
 
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