文/海外の大法弟子
【明慧日本2020年1月20日】師父は法の中で私達に「1人の人間が生まれた時、時間概念のないある特殊な空間に、その人の一生がすでに同時に存在しており、一生だけではない場合もあります」[1] と説かれました。
師父は「それでは、個人の努力によって自分を変えようとする必要はないのではないか、と考え、納得できない人がいるでしょう。 実は、個人の努力は人生の小さい部分なら変えることができ、小さな部分は個人の努力によって確かに何らかの変化を受けます」[1] とも説かれました。
人の運命は天によって定められており、修煉者としては「不運だ」とこぼすべきではありません。私の場合、前半生の魔難がなければ、自分が作った大きな業力を返済していなければ、大法を得ることが出来なかったことでしょう。師父は「多くの人は法を得るために、歴史上多くの苦を嘗め、修煉しており、しかも修煉の過程で多くの苦を嘗めました」[2] と説かれました。
前半生は後半生に法を得るために準備されているとするならば(もちろん、後半生においても引き続き業を返済し、苦労しなければならない)、それは同修達が文中で言った両親が早く亡くなったとか、家が男尊女卑だったとか、夫に暴力を振るわれたとか、姑に虐められたとか、親がひいきしていたとか、というような事として表れて来きたのではないでしょうか?
そして法を得た生命が宇宙の中で、もっと幸運で荘厳で神聖な生命であると認識するならば、どうして自分が不運だと不平不満をこぼすのでしょうか? 人間のものをまだ放下できないのでしょうか? まだ怨んでいるのでしょうか? まだ根に持っているのでしょうか? もし、常人がこのような文章を読めば、不運だから修煉しているのだと思われるかも知れません。
もちろん、多くの同修は法を実証するため、舅と姑に理不尽なことをされた経験等を書きました。そのような文章には「不運」の二文字がありません。
個人的な認識です。正しくない所があれば、慈悲なるご叱正をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『法輪轉』
[2] 李洪志師父の経文:『カナダ法会での説法』