同修は鏡のように 自分の執着を映し出す
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2020年2月2日】師父は「彼らが相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができれば、と思います」 [1] と説かれました。

 着実に修煉する中で、「周りの同修を鏡にし、他人の執着を見て自らを反省し、法に照らし合わせて内に向けて探せば、自分の普段意識していない執着に必ず気付く」と悟りました。

 修煉者は常人の中で生まれ、育ち、常人が持つ執着心をほとんど持っています。しかし、他人の執着はよく見えても、自分の執着はなかなか気付きません。なぜなら、観念や思想業は内に向けて探すのを妨害し、抵抗し、体内にあるよくないものは死にたくないし、修煉者に見つけてほしくないからです。

 内に向けて探すのは難しいことです。そのため、誰でも自分を探したがらず、法を持って他人の問題を見つけ、他人に変ってほしいと思いがちです。それは自分を変えようとせず、「鏡」に変わってほしい、違う自分を映してほしいのと同じことです。それは不可能なことでしょう。実は「自分が変われば、相手も変わる」と私は悟りました。

 同修は互いの「鏡」です。他人の執着に気付くと、大法に照らし合わせて自分を探せば、自分の執着を見つけることができます。その執着は他人と同じ場合もあれば、違う場合もありますが、本気で内に向けて探せば、必ず見つけることができるのです。

 ですから、他人の問題に気付くことは、自分の問題に気付くのと同じです。すべて他人が悪い、自分には問題がないということはありえません。他人の責任ばかり追及することは、自分を探していないことです。

 他人の問題を指摘する時、私の場合、まず自分には同じ問題があるかどうかを見て、それから、自分の振る舞いはどうか、自分はどのように悟っていたのか、どのように修めてきたのか、自らの修煉体験を言い出して、相手に参考にさせるようにしています。

 修煉者は「鏡」に囲まれています。周りのすべての人は「鏡」です。法の中で修煉すると、自分の執着が必ず暴き出され、他人の振る舞いを通して見せてくれます。他人の振る舞いを見て、居心地がよくないと感じたら、それは早く自分の執着を取り除くようにと気付かせてくれているのです。

 「鏡」の作用の下で、周りの人が皆うまく行なっていると感じたら、それはあなたがよくやっており、周りの人の振る舞いがおかしいと感じた時、それはあなたがうまく行なっていないからです。不満や文句を言いたい時、それは「鏡」の中の自分に不満、文句があるからです。本当によくないのは自分自身ですから。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「時間との対話」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/1/9/398749.html)
 
関連文章