ローマの大疫病は なぜ突然 消え去ったのか?
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 【明慧日本2020年3月30日】

 ローマ帝国の衰亡の原因

 ローマ帝国は歴史上最も長く続き、民族と文化が最も多様化した帝国である。人口は1億2千万人に達したことがあり、その領土の広さは、インドのマウリヤ帝国と中国の漢帝国を合わせた面積よりも大きかった。しかし、キリスト教徒に対する悲惨な迫害がこの強大な帝国の運命の転換点となった。疫病が猛威を振る中で、西ローマ帝国は5世紀、蛮族によって簡単に征服され、4回目の疫病で東ローマ帝国の人口が2500万人~5000万人減少し、見る見るうちに衰退していった。

 最も悪名高いローマの皇帝ネロは、西暦64年~65年の間にキリスト教を迫害した。当時の歴史学者の記載によると、西暦64年7月18日の夜、ネロは新しいローマの都市を建設するため街に火を放ち、その罪をキリスト教徒に着せた。ネロの指示でキリスト教徒に対する様々なデマが広く伝わっていった。キリスト教徒たちが赤ん坊を殺して神に祭り、その肉を食べて血を飲み、発狂して乱倫を行なったなどとデマを流し、社会に存在する悪行の全てをキリスト教徒に押し付けた。

 古代ローマの歴史学者タキトゥスは『編年史』の中に以下のように記載している。「皇帝が所有する競技場で、キリスト教徒たちは獣の皮を被せられ、無残にもライオンに噛み殺された。また、他のキリスト教徒たちは十字架に縛り付けられたまま、夜の灯りとしてたいまつの火となって焼き殺された。馬車の運転手に変装した暴君ネロは、一般市民の中に混じって、これらの痛ましい光景を見物していた」

 4年後、ネロは殺され、西暦65年にローマでひどい伝染病が流行し、記録によると3万人もの命が失われた。

 その後、ローマ帝国では10人の皇帝がキリスト教徒に対して残酷な迫害を行なった。そして再び3回の疫病がローマを襲った。そのひどく痛ましい光景は言葉ではとても言い表せないものであった。

画家描绘的瘟疫(1630年,法国画家Nicolas Poussin)
1630年、フランスの画家 ニコラ・プッサンが描いた疫病の街の光景

 『聖徒伝』の作者、歴史学者ジョン・フォックスは、次ように書き記した。

 「埋葬する者がいないため、死体はどれも裂けて腐乱し、大通りに晒されたままになっており、腹部は大きく腫れ上がり、開いている口からは膿が噴き出し、目は真っ赤で、手は高く挙げたままになっている。死体が折り重なって建物の隅、街の中、庭や教会堂の中は死体だらけの状態となった。また、霧の中で海に浮かぶ船の中、あるいは、神の怒りにふれた罪深い船員達が、波の間に浮かび漂う墓場となった」

 「周りの野原に白くなった穀物を、刈り取って貯蔵する人は誰一人としていなかった。ヤギの大群や牛、ブタなどの家畜はすでに野生動物と化し、これらの家畜は放牧した人間の声すら忘れている。コンスタンティノープル(※)の街でも死者の数は計り知れないほど多く、死体は街中に積み上げられ、都市全体が悪臭を放っていた」

 「あの繁栄を誇ったローマ帝国のすべての王国、すべての領土や地区、すべての強大な都市は見る影もなく廃墟と化し、全市民はあの恐ろしい疫病に翻弄された」

 当時、人々は人類の知恵をすべて使い尽くし、思い付いたすべての方法を用いて対抗したが、猛威を振るう疫病を食い止められず、極度に絶望し、どうすることも出来ないまま死を待っていた。その時、慈悲なる神佛は、人々に啓発を与えた。

 西暦680年、人々は次第に目覚め、統治者のキリスト教徒への迫害や、社会の道徳の堕落に対して厳しく非難し始めた。ローマ市民は次々と家を出てキリスト教徒セバスティアヌスの遺骨を捧げながら大規模なパレードを行ない、敬虔な心で神に懺悔した。人々の敬虔な心を見た神は許しを与え、それからローマの疫病は徹底的に消え去った。これらの事は現代科学をもってしても、今なお解明することが出来ていない。

 ローマ城の奇跡は多くの周辺国をも目覚めさせた。人々は次々とセバスティアヌスの聖骨を恭しく祭り、敬虔な気持ちで懺悔した。また、西暦1575年ミラノと1599年リスボン両地で大疫病が蔓延した時にも、住民たちは聖骨を捧げて敬虔に懺悔し、市内を巡ってパレードをすると、疫病はストップしたのである。

 歴史を戒めとする

 人類の歴史は絶え間なく繰り返されている。私達は時空のトンネルを通って2000年前から今日の中国を見てみると、驚くほど類似しているストーリーを発見した。

 中国共産党の首魁・江沢民は、当時のローマ帝国皇帝の暴君ネロと極めて似ていた。江沢民は法輪功を迫害するため、国家予算の4分の1を惜しまず使用した。迫害の当初、3カ月以内に法輪功を消滅させると公言し、法輪功学習者に対する迫害政策は、「その名誉を失墜させ、その経済を断絶させ、その肉体を消滅させる」であった。

 中国共産党は法輪功を迫害する目的を実現するため、2001年旧暦の大晦日にあたる1月23日の午後、天安門広場で5人の焼身自殺事件を起こした。事件が発生して2時間も経たないうちに、当局の新華社は尋常ではないスピードで、世界各国に向けて英語版ニュースを発表し、さらに「この焼身自殺者の5人が法輪功学習者である」と断定した。それからこの事件を全国のすべてのラジオ、テレビ局、各大手メディア、新聞が全面的に報道し、国家機関を利用してでっち上げた番組を繰り返し放送し、全中国人を毒害した。

 「ボイス・オブ・アメリカ」の記者が真偽を確認するため、北京公安局と公安部に電話をかけて確かめたところ「この事は知らない」という返答だった。

 2001年8月14日、国際教育発展組織(IED)は国連の人権擁護委員会で、中国での法輪功学習者の迫害を非難し、天安門焼身自殺事件についての分析を発表した。「我々の調査によると、本当に生命を殺害したのは中国共産党の当局です……われわれは焼身自殺事件のビデオを入手しました。スローモーションで分析した結論は、 この事件は政府が一方的に監督して演じたものです」。確かな証拠を突き付けられた中国共産党代表団は返答に苦しみ、反論できなかった。

 20年来、中国共産党の党首は何人も交替したが、法輪功学習者に対する迫害は一度も停止したことがない。中央から末端組織まで、軍隊から地方まで、武装警察から公安まで、各階層のどこにでも法輪功学習者を迫害する部門を設立した。留置場、労働教養所、刑務所から洗脳班まで、すべてが法輪功学習者を残虐に迫害する場所となった。

 明慧ネットの統計によると、現在に至るまで、迫害により名前が確認されて死亡した学習者だけでも4363人おり、まだ確認されずに負傷し、障害を負い、一家離散し、路頭に迷った学習者は計り知れないほどの数に上る。

 さらに恐ろしい罪悪は、中国共産党が全国の軍隊と病院を連携させ、秘密裏に臓器移植をビジネスとし、法輪功学習者の臓器を生きたまま強制的に摘出していることである。2006年、カナダの国際人権弁護士デービッド・マタス氏とカナダの外務省前アジア太平洋州担当大臣のデービッド・キルガー氏は共同で、研究報告「血まみれの臓器狩り」を編纂し、52項目の証拠に基づき対比しながら検証を行ない、法輪功学習者からの臓器狩りは紛れもない事実である、と発表した。その上で「これはまさに、地球上で行なわれている未曾有の邪悪な犯罪です」と語った。

 本文では、法輪功学習者が受けた迫害について、さらに詳細な情報を紹介できないが、以上に上げた僅かな事例からもわかるように、中国共産党と江沢民の行為がローマ帝国の暴君ネロと比べてみても、勝るとも劣らないことが見て取れる。

 中国共産党は絶え間なく中国の国民に災難をもたらした。今回、ぜひとも中国共産党の仲間にならないように、中国共産党と一緒に災難に巻き込まれないように忠告したい。あなたに信仰があるかどうかに関わらず、神佛は人の心だけを見ておられるのだと思う。中国共産党の組織から脱退し「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と心から念じれば、あなたはこの災難をきっと乗り越えられるだろう。

 

皆さんの幸運をお祈りする。

 (※)コンスタンチノープル(東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/2/6/400764.html)
 
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