明慧法会|明慧の記事を書く中で修煉し 向上する
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2020年6月6日】私は1994年に法輪功に出会えたのですが、本格的に修煉を始めたのは1999年にカナダに移住してからで、カナダに来て間もなく、迫害が始まりました。

 一、明慧の記事を書くようになる

 明慧ネットの仕事に携わるようになったのは、2000年からです。2000年8月、大法弟子が地元で健康博覧会を開催後、記事を書いて明慧ネットに投稿するようにと協調人に依頼されました。これをきっかけに明慧ネットに記事を投稿しはじめ、今年で19年も続けてきました。最初の頃は記事の書き方すら分かりませんでしたが、これは自分の使命で、必ずやり遂げなければと思いました。

 小学5年生から中学を卒業するまでの5年間は、週1回ほど中国語を習うために塾に通っていました。先生は市の有名な講師で古代の漢語にも精通し、私たちに毎週作文を書かせました。その頃から私は中国文学や作文の書き方、中国の伝統文化に対して興味を持つようになりました。こうして作文を書く訓練や大量の読書で培った技能と知識は、明慧の記事を書く仕事のために下地を作っていたのだと思います。

 迫害の初期の頃、カナダの首都オタワでは多くのことが起きました。修煉者はSOS救援パレードや中国大使館前での抗議や、記者会見をしたり、告訴を行ない、中国官僚がカナダを訪問する時には抗議活動を行なうなど、迫害反対の活動を行ないました。そして、カナダ政府は法輪功団体に多くの表彰状と奨励金を与えました。またその他にも、臓器狩りの調査を行ない、中国共産党のスパイ活動と浸透工作を調査し、国会では法輪功のために公聴会を開き、大きい出来事が頻繁に発生するなど、まさに、正邪の闘いが最も過激な時期でした。

 修煉者が行なった活動は大法の真相を伝える役割を果たしていると同時に、明慧などのメディアがこれらの活動を報道することで、いっそう真相を広く知らしめ、記事を書いて投稿する仕事がいかに大切なことかを、当時の協調人がよく話してくれました。明慧の読者には一般人、法輪功を迫害する側の悪人らや、多くの大法修煉者もいて、我々の記事は大法の真相を伝えている他に、悪人に警告することができ、中国国内の大法修煉者のプレッシャーを軽減することもできました。そして徐々に私は、自分の責任の重大さが分かるようになりました。

 明慧の記事を書くには、まず活動の背景を把握する必要があり、そして、取材計画を練り取材をして、インタビューの音声を文字に転換し、翻訳し、文章を書き上げ、写真の処理と編集を行ない、図の説明を書きますが、これらの一連のプロセスには、大量の時間と精力を投じなければなりません。また、人手が足りないために多くの場合、これらの仕事を1人でこなさなければなりませんでした。

 一つの記事を完成するために、よく深夜の2時、3時まで働き、1日に複数の記事を書くこともあります。師父のご加持と同修の助けのおかげで、何とか順調に今日まで歩んできました。

 二、皆と一体になって、ともに向上する

 初期の頃、記事が掲載された後に、佛学会の責任者が不具合を発見すると、すぐに私に訂正依頼の要請電話がかかってきます。私は表面上では穏やかに対応しますが、内心では面倒くさくてよく愚痴をこぼします。ある日、ある出来事の発生時間を間違えてしまいました。その時になって私はやっと事の重大さを認識しました。佛学会からの指摘は記者としてのレベルアップの良い機会であるのに、私は毎回のように機会を逃して、同修たちの愚痴を言っていました。しかし、修煉が向上するに伴い、このような問題はほとんどなくなりました。

 人手不足のために、私は明慧ネットに記事を書くほか、大紀元や他のメディアにも記事を書き、さらに時々、常人社会の一般のニュースも書かなければならず、だんだんと力不足を感じていました。

 大きい出来事が発生すると、時間と競って原稿を書き上げて簡単に添削をしてから、明慧ネットと大紀元の両方に投稿せざるを得ない時もあります。結局は明慧ネット側からみると、私が書いた記事はニュース性を重視する大紀元の文脈に似ており、一方、大紀元の編集者側からすると、私の記事は「明慧ネットの特徴が濃い過ぎる」と言われました。

 人手不足の中で他の同修を信用せず、自分自身の能力を実証したいという執着があることに気づきました。メディアは個人の仕事場ではなく、私は古い修煉者として本来、もっと多くの同修に参加してもらえるように、同修の皆さんを励まさなければなりません。そこで、私は大紀元の同修たちに編集して記事を書き、翻訳の技能を習得するように勧め、大きな活動が開催される前に計画をしっかり立てて、音声を文字に転換する仕事や編集などを大紀元の同修に手伝ってもらいました。そうすることにより、彼らが報道に参加することができ、いっそうやる気が湧いてきます。私自身も集中して異なる角度から、明慧の記事を書くことが出来るようになりました。

 三、大法の仕事をする上で、そこには修煉の環境があった

 修煉のことや家庭(夫は修煉していない)の問題、常人の仕事と大法の仕事、この事にどのようにバランスを取ればいいのか、十数年の中でいろいろな試行錯誤がありました。8年前、長期にわたり煉功を怠ったために体の老化が進んで肥満体型になり、髪の毛は白髪混じりで体力がなくて疲れやすく、体のあちこちに不具合が現れて、坐禅の時に30分しか足を組めませんでした。特に夜中まで文章を書くと頭がよく混沌とした状態になり、常人の仕事にまで影響しました。自分の体調がこんなに良くないのに、どのようにして周囲に大法の素晴らしさを伝えられますか。そこで、毎日五式の功法をしっかりと頑張って行こうと決心しました。

 ちょうどその当時、多くのところが学法と煉功を監督するために、テーブルを使用する方法を取っていると聞き、私たちのチームもそれを導入しました。それ以後、どのように忙しくても毎日五式の功法を行ない、少なくとも『轉法輪』を1講読むようにと自分に要求しました。少しずつですが私の体にも変化が起きて体型が細めになり、顔のしわも減り、肌がつやつやしてきました。先日、20年ぶりに会った古い友人に、私の容貌は20年前に比べて、ほぼ変わっていないと褒められました。

 四、神韻の記事を書く中で、いかにしてひらめきを得るか

 神韻公演が初めて地元で開催されたのは2007年でした。私は現地の報道の協調人として、報道の仕事を行なう中で毎年大きな収穫がありました。初めの数年間は人手が足りないため、取材記者をしながら現場で編集をし、二つの仕事を同時に引き受けてこなし、それと同時に、メディアに関わる全員の食事と宿泊の手配をも担当していました。心身ともに疲れ果てプレッシャーも重なって、心を静めて記事を書くことがなかなか出来ませんでした。

 2012年の初回の神韻公演が終わった後、重要な基調公演の報道について頭にまったくアイデアが浮かばないため、心底から絶望の状態でした。時間が1分が1秒のように感じられて去っていき、劇場内は騒がしくて、同修たちにあれこれと声をかけられても、全く心が落ち着きませんでした。そこで、心の中で師父に助けをお願いしました。すると、だんだんと断片的な考えが頭の中で繋がっていき、全体の構想が徐々に出来上がりました。2012年の公演の最初の演目は「赤い龍を斬る」で、創世主は神々を率いて衆生を助け、邪悪は赤色の凶悪な龍に化けて口から火を吐き上げ、その一方で、創世主は手を振って雷の一撃でもって凶悪な龍を撃退するというストーリでした。取材の時、数人の政治家が「正義はきっと邪悪に打ち勝つ」と語ってくれましたので、私は直ぐさま、基調公演の報道の大筋を捉えることが出来ました。

 記事を書く中で常に新しいひらめきを求めることが、私のやり方の原則ですので、紋切り型の記事には惹かれないのです。まして読者はなおさらのこと、読みたくないでしょう。そのため、毎回の神韻報道をする時、私は細心に観察してから新しいインスピレーションを探します。

 2013年、神韻公演の初回を迎えるのに、私は車で劇場へ急ぎました。高速道路を走っていた時、空高く浮ぶ名月が目に入って優しい光を放っていました。突然に目覚めた感覚になり、その後、記事を書く時に、頭の中からアイデアとひらめきがしきりに出てきました。その年の演目に巨大な光の輪や大きくて丸いお月様、丸い太鼓などが次々と浮かび上がりました。また、中国古典舞踊も「圓」を重視しています。例えば、手の動作も足の動作も「丸く」円を描く動きを重視します。「圓」は「縁」と同じ発音で、我々にとって最大の縁は創世主と結んだ聖なる縁です。ちょうどその年の演目に戚暁春さんの二胡の演奏があり、曲名は「聖なる縁」でした。また取材の内容と合わせてアレンジすると、基調報道の大筋が出来上がりました。

 実は毎年の神韻公演は衆生を救うと同時に、世間に多くのメッセージを伝えていると思います。ほかの時空のことや輪廻転生のこと、修煉のこと、神通力などの多くの概念を舞踊の形で織り交ぜながら、神韻公演は伝統的な理念を思い出させ、伝統的な生活様式に復帰させるための道筋を我々に示しています。神韻の内包をもっと深く理解し、高いレベルの記事を書くには、しっかり学法すると同時に、絶えず書く力を高めるしかないと私は悟りました。

 結び

 2018年のワシントンDC法会に、師父は明慧ネットの仕事に携わる弟子たちを激励されました。「明慧ネットだけは大法の対外的な窓口であり、大法弟子が修煉について交流する場です。大陸の大法弟子も含めて、明慧ネットは世界の隅々にいる大法弟子の交流の場なのです。これはどのメディアにもできないことで、代えられないものです。ほかのメディア以上の無量の功徳を樹立したのです」[1] 。しかしこれを読んで、自分の努力はまだまだ足りない、と私には分かっています。

 十数年前、ワシントンDCで大法のイベントに参加した際に、「私のそばに座って」という歌を耳にして、その歌詞を前から知っていたような気がしました。その歌詞は実は私が2001年にイギリスの大法弟子の詩をベースに中国語に訳したもので、明慧ネットに投稿したことを思い出しました。その後、私はその事をすっかり忘れていました。あの時に何気なく翻訳したものが今頃、大法弟子の中でよく歌われ、伝えられる歌にまで大きく成長しました。まだまだ世に知られていないどんな小さい仕事でも、馬鹿にしてはいけません。いつかあの小さな仕事が、全世界を動かす奇跡になるかもしれません。私たちは大法と一緒に存在する輝かしい栄誉ある大法弟子なのですから。

 「私のそばに座って」の最後の二句を用いて、この交流文を終えたいと思います。「黙々と、貴方と私は歴史を変えている。黙々と、貴方と私は衆生を済度している」

 注:
 [1] 李洪志先生の経文:『2018年ワシントンDC法会での説法』

 (明慧20周年法会の交流原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/5/25/387763.html)
 
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